菅原神社(読み)すがわらじんじや

日本歴史地名大系 「菅原神社」の解説

菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]堺市戎之町東二丁

大小路の北、開口あぐち神社の北東に鎮座。菅原道真・天穂日命・野見宿禰を祀る。旧郷社。堺北さかいきた庄の鎮守として堺天神社あるいは常楽寺じようらくじ天神と称され、単に天神社ともいう。創建時は不詳。「堺鑑」によると、菅原道真が流謫地の大宰府で彫刻した七天神の一つが延喜年中(九〇一―九二三)に堺浜に流れ着いたので民家のそばに祀っていたところ、長徳二年(九九六)正月に奇瑞があって神体が飛行し当社の紅梅の樹頭に安座したという。また塩穴しあな郷にあった塩穴天神を堺北庄に勧請したものとする説がある(泉州志)

境内にあった神宮寺の常楽寺(明治初年に廃絶)は、縁起によると仁寿二年(八五二)慈覚大師の草創で、長徳三年に鎮守であった春日明神山王権現とともに天神を奉祀したという。永享八年(一四三六)七月八日の僧正興継注進状(醍醐寺文書)に「朴津郷堺北庄常楽寺」とみえ、山城醍醐寺の門徒になることを希望している。文明一二年(一四八〇)四月一四日曼荼羅供が行われ、大和永久えいきゆう上乗じようじよう院僧正が供養導師として下向しており(「大乗院寺社雑事記」同年四月九日条)、また同供養に出席した甘露寺親長は「親長卿記」同年四月一四日条に「今日天神之内輪蔵供養也、有庭儀曼多羅供、伶人奏舞楽、阿闍梨参入、其儀不記」と記している。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]上野市東町

ひがし町東端にあり、ここは近世には上野城外堀外の東南角にあたった。祭神菅原道真ほか。祭日一〇月二五日。旧県社。

現在の上野城跡にあった上野山平楽へいらく寺の鎮守神だが、天正九年(一五八一)織田信長の兵火に焼かれ、上野村の山の神やまのかみ(現丸之内)に移った。同一三年筒井定次伊賀入部後、上野城南方の通称かや町辺りに祀られていた天神を山の神に合祀したという。北川家由緒書(北川勝陌氏蔵)に「当御国守に(羽)柴伊賀守様被為成御入部之時、今本町南天神之方不残茅野にて有之候」とある。現恵美須えびす町の山渓さんけい寺の位置は元天神もとてんじんとよばれ、天満宮がここから移されたという伝承がある。なお定次が大和の故地の菅原すがはら(現奈良市)より菅原天神を勧請したという説もある。慶長一六年(一六一一)藤堂高虎が上野城を改修するにあたり、山の神の位置が二之丸にのまる内に入るので、外堀の外の現在地に移し、上野町の惣社とし、勧進の修験者小天狗清蔵の本願により、天満宮と九社きゆうしや権現の二社の再興上棟を終えた(同社蔵棟札)


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]えびの市水流

水流つる地区の北方、たて山の麓のつき牟礼むれにある。祭神は菅原道真・大山津見神。かつては天満大自在天神を祭神とし、天満宮(三国名勝図会)、また吉田よしだ天神宮などと称した。旧郷社。「三国名勝図会」によると、伊予の国人河野伊予守通弘の子孫通安は明徳三年(一三九二)薩摩国けどう院に来住。戦場で霊験を得ていたことから答院に小社を建て天満神を祀った。その子通正は真幸まさき院吉田へ移り、北原氏の家臣となって境田氏と名乗り、建山に天満神社を建てて吉田の鎮守とした。通正の孫にあたる境田藤右衛門長友の代に再興され、長友の孫境田対馬守満元の代の享禄四年(一五三一)当社を槻ヶ牟礼に移したと伝える。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]野洲町永原

祭神は菅原道真。天神社・永原天神ともいう。源頼朝の勧請と伝え、江部えべ(江辺)荘三ヵ村の産土神とされる。延文五年(一三六〇)の修築、永和五年(一三七九)の屋根葺替えに続いて、応永二六年(一四一九)一一月には全面的な造替えが行われた。この時の棟札(当社蔵)には神主藤原清重・願人沙弥正光のほか、江辺荘内の大工二名の名が記されている。沙弥正光は永原新左衛門入道正光のことで、神主藤原清重も永原氏の一族であろう。明応七年(一四九八)四月一四日の修復の際の棟札(同蔵)にも神主永原越前守重宗、藤原永原越前守重秀とあるように、永原氏との関係が深い。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]出水市荘

高尾野たかおの川の左岸、現在は国道三号の南に位置する。菅原道真を祀り、旧村社。古くは老松おいまつ天満宮と称し(「三国名勝図会」など)、現在も生松(老松)天神と通称される。伝承によると大宰府に左遷された菅原道真がさらに薩摩国に入り、このときしようの湊に船を寄せ、その着船地に道真の霊を勧請したものというが(同書)、当地は古代末に成立した太宰府天満宮安楽寺領の庄園老松庄の中心地といわれており、同庄成立とともに庄の鎮守として太宰府天満宮の末社老松社の分霊を勧請したものであろう。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]能都町鵜川

山田やまだ川河口右岸に位置し、鵜川うかわ天満宮ともいう。祭神は菅原道真・猿田彦神・少彦名命・饒速日命で、旧村社。一説に正暦年中(九九〇―九九五)の創立と伝える(能登志徴)。社蔵の天文三年(一五三四)八月一六日銘をもつ菅原神社造営棟札によると、領主温井兵庫助総貞や代官の丸山源左衛門尉・福田藤左衛門尉らによって造営され、永禄五年(一五六二)八月下旬に拝殿の修理がなされている(「拝殿修理棟札」菅原神社蔵)


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]水沢市姉体町

北上川堤防沿いにある。祭神菅原道真。「上姉体村安永風土記」には天神社とあり、社は東向き三間造、社地東西二〇間・南北六間と記す。勧請年代は不明だが古社であるとも記し、秋祭には御花米田の米を供え、糠・藁は別に仕置する古例を紹介している。また社地に八房やつふさ梅という一花に実が八つなる梅の名木があったという。旧磐井いわい郡や旧胆沢いさわ郡地方には菅原道真に関する伝説と道真を祀る神社が多い。延喜元年(九〇一)菅原道真が左大臣藤原時平らの策略により大宰権帥として九州に左遷されたが、このとき夫人が道真と分れて子三人と従臣菅原山城を連れて奥州へ落ち、胆沢郡藤杜郷軍治兵衛尚利によって、夫人は母体もたい(現胆沢郡前沢町)、長女吉祥姫は上姉体かみあねたい村、次女梅枝姫は下姉体村、長男秀才淳茂は中野なかの村へ配流されたという伝説である。


菅原神社
すがはらじんじや

[現在地名]奈良市菅原町

西大寺と垂仁天皇菅原伏見東すがはらのふしみのひがし陵の間に鎮座。「延喜式」神名帳の添下そえしも郡の「菅原神社」とされる。旧村社。祭神は天穂日あまのほひ命・野見宿禰・菅原道真。天穂日命は「日本書紀」神代巻に「是出雲臣・土師連等が祖なり」とみえるように、喪葬や土器製作に従事した土師氏の祖神である。垂仁天皇皇后日葉酢媛の死去の際、殉死に代わって埴輪を陵墓に立てることを進言した野見宿禰が功賞を受けて土部臣の姓を賜り、土部連などの始祖となったという説話をもつ土師氏(日本書紀)は、「菅家御伝記」に「爾来土部氏万葉居菅原伏見邑」とみえるように、当社付近にも住し、のち居地にちなんで菅原・秋篠などに改姓した。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]えびの市西川北

天神てんじん川西岸、みや馬場ばばにある。祭神は菅原道真。旧郷社。幕末までは天満大自在天神(真幸院記)、天満大聖威徳天神宮(三国名勝図会)などとよばれた。「三国名勝図会」によれば北野・宰府・威徳の三天神を祀る馬関田まんがた郷の総鎮守。昔道正某という者が京より勧請したと伝え、子孫の飯野いいの在の市坊道正三左衛門宅には神体を安置してきた笈が残る。島津忠平(義弘)に崇敬され、正祭には流鏑馬が行われたことから射手の馬場の地名も残り、同所では浜下りの儀式もあったという。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]志雄町菅原

菅原の集落中央部にあり、菅原道真・応神天皇・武甕槌神を祀る。旧県社。承平年間(九三一―九三八)開発百姓の国武行長らが京都北野きたのから移住し、その所縁で天徳四年(九六〇)の天満宮を勧請したというが、永久二年(一一一四)菅原保が北野天満宮の常灯料所となったため、庄鎮守として北野社が勧請されたものとみられている(志雄町史)


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]東郷町藤川

藤川ふじかわの中央部、北野きたの山中にある。祭神は菅原道真。藤川天神・藤川天満宮ともいう。旧郷社。鎮座地の北野は大宰府に左遷された菅原道真が隠栖して没した地と伝えられる(東郷町郷土史)。文化一三年(一八一六)の棟札(社蔵)によれば、豊臣秀吉による天正一五年(一五八七)の九州仕置の際、兵火に遭って社殿を全焼し、古文書や文献類もすべて失われて縁起・由来は不詳とする。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]熊本市桜町

山崎やまさき武家屋敷の北部、坪井つぼい川沿いにあり、かつては山崎天満宮と称し、通称山崎菅原神社。祭神は菅原道真。「国誌」によれば、菊池則隆が肥後に下向した後、永久元年(一一一三)に筑前国大宰府安楽あんらく寺天満宮を「詫磨郡山崎村白川ノ辺南嶺森ノ本」に勧請し、菅原天満宮と称したのに始まるといい、近辺に二町余の田畑が寄付された。細川忠利入国後、寛永一〇年(一六三三)に社地六畝が寄進され、屋敷表口一二間、入一五間二尺の地子免許地が与えられている。祭礼は九月二五日で藤崎ふじさき宮の社人が神事を勤めた。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]出水市米ノ津町

現在のこめ町の中央に位置する。江戸時代には米ノ津湊に臨む海浜にあって米ノ津天神・米ノ津天満宮ともいった。旧村社。祭神は菅原道真。縁起によると勧請の経緯は以下のようであった。天明七年(一七八七)前鹿児島藩主島津重豪が江戸に赴く途次、米ノ津行館に宿泊、その夜は風雨雷鳴が激しかった。ところが北東から一筋の光が差込み、翌朝行館前門外の石階の上には「南無天満大自在天神」と銘のある鏡があった。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]羽茂町羽茂本郷 天沢

大蓮たいれん寺の脇にある。祭神菅原道真。「佐渡国寺社境内案内帳」では応永三三年(一四二六)沙弥真本と海老名弾正直国の勧請という。同年九月吉日の某寄進状写(菅原神社文書)には大檀那沙弥真本と大檀那海老名弾正左衛門尉直国および同嫡子牛次郎丸・次男寅法師丸・三男千代鶴丸が名を連ねる。寄進地は「河原畠」にあり、その四至は「東 古川切 西 宝院御前切 北 須川開山峯切 南 三郎衛門畠切」とある。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]山国町平小野 田中

祭神菅原道真。旧郷社。康正三年(一四五七)太宰府天満宮より勧請したという。享保一〇年(一七二五)の平小野若宮天満天神鐘銘写(小山田文書)に「豊州下毛郡溝辺郷□□(平小カ)埜邨若宮天満天神宮者、創建不記年月、村民尊奉享祀今古無敢陵夷矣、康正三丁丑年大江氏親胤命恵雲寺僧志達者再建清廟」とみえ、元禄四年(一六九一)社殿を再興したという。境内にはイチイガシの巨木が二本あり、奉献石造品が多く、鳥居三、狛犬三対、石灯籠・水鉢・石碑二などがある。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]男鹿市脇本脇本 七沢

脇本わきもとの西、脇本城跡のある丘陵中腹に位置する。祭神は菅原道真など。旧村社。

文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」に「天神社」、嘉永期(一八四八―五四)の「絹篩」に「天神宮」、秋田郡村々神社調(秋田県庁蔵)には「天神堂」とある。由緒によれば天正年中(一五七三―九二)安藤太郎なる者が男鹿二万石を領し、領内鎮守の総社としたという。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]秋田市八橋字八橋

八橋やばせ街道の北側、街道から細い参道が通じる。祭神は菅原道真。箱岡はこおか天満宮とよばれ、日吉ひよし八幡神社の南にあったが、延享三年(一七四六)同地に寿量じゆりよう院が建立され現在地に移転。同時に菅原神社と改称し、「八橋のお天つあん」として親しまれた。明治初期に焼失、廃寺となった寿量院の拝殿を移して社殿とした。


菅原神社
すがわらじんじや

[現在地名]能代市竹生字神田

竹生たこうの集落の西方、国道一〇一号に沿った小高い丘の上にある。祭神は菅原道真。旧村社。

口伝によれば、享禄(一五二八―三二)の頃渡部新十郎がこの地に開田を決意し社殿を建立、天神宮と称し、やがて竹生村が成立すると家居の近くに移転した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典 日本の地域遺産 「菅原神社」の解説

菅原神社

(岩手県遠野市附馬牛町下附馬牛5地割50)
遠野遺産」指定の地域遺産。
松や杉などが茂り“天神の森”として知られる。「遠野物語」にも記述が見える

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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