日本歴史地名大系 「覚仙町」の解説
覚仙町
かくせんちよう
城の南側に位置し、西は
慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)に「かち町」として町割され、茂森町から東に延びる道路に町並を形成する。町内一九軒のうち鍛冶一〇、大工一、正学坊一で、武家その他の屋敷が若干と、鍛冶職人の職人町であった。寛文一三年(一六七三)の弘前中惣屋敷絵図(同館蔵)には、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
城の南側に位置し、西は
慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)に「かち町」として町割され、茂森町から東に延びる道路に町並を形成する。町内一九軒のうち鍛冶一〇、大工一、正学坊一で、武家その他の屋敷が若干と、鍛冶職人の職人町であった。寛文一三年(一六七三)の弘前中惣屋敷絵図(同館蔵)には、
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