日本大百科全書(ニッポニカ) 「譙周」の意味・わかりやすい解説
譙周
しょうしゅう
(201―270)
中国、三国蜀(しょく)の儒者。字(あざな)は允南(いんなん)。巴西(はせい)郡西充国(せいじゅうこく)県(四川(しせん)省閬中(ろうちゅう)県の南西)の人。蜀学(しょくがく)とよばれる讖緯(しんい)(予言書)の学問を継承して、諸葛亮(しょかつりょう)(孔明(こうめい))に評価され、勧学従事(かんがくじゅうじ)に任命された。諸葛亮が五丈原(ごじょうげん)で陣没すると、禁令が出る前に持ち場を離れ、ただひとり弔問に赴き、その死を嘆いたという。しかし、姜維(きょうい)が北伐(ほくばつ)を再開したときには無謀であると反対し、魏(ぎ)の鄧艾(とうがい)が成都(せいと)に迫ると、蜀の皇帝である劉禅(りゅうぜん)を説得して降服させた。その後晋(しん)に仕えて散騎常侍(さんきじょうじ)に昇進した。
譙周の学問は、歴史のなかから予言を引き出すもので、『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』にみえる、春秋時代の名のつけ方を参照して、「先主の諱(いみな)は備(び)であり、そのことばの意味は具(完結する)である。後主の諱は禅(ぜん)であり、そのことばの意味は授(さずける)である。劉氏はすでに完結した、まさに人に授けるべし、ということになる」と述べて、蜀の滅亡を予言した。『三国志』を著した陳寿(ちんじゅ)は、弟子にあたる。『三国志演義』では、姜維のみならず、諸葛亮の北伐にも反対した悪役にされている。
[渡邉義浩]
『渡邉義浩著『「三国志」軍師34選』(PHP文庫)』