日本大百科全書(ニッポニカ) 「劉禅」の意味・わかりやすい解説
劉禅
りゅうぜん
(207―271)
中国、三国蜀(しょく)の第2代皇帝(在位223~263)。字(あざな)は公嗣(こうし)。劉備(りゅうび)の長男で、幼名は阿斗(あと)、生母は甘夫人(かんふじん)。荊州(けいしゅう)で劉備が曹操(そうそう)に敗れた際には、長坂坡(ちょうはんは)で趙雲(ちょううん)に救われ、九死に一生を得た。219年、劉備が漢中王(かんちゅうおう)になると王太子になり、221年、劉備が即位すると皇太子になった。223年に即位してからは、諸葛亮(しょかつりょう)(孔明(こうめい))に全権を委任し、三国時代の君主のなかで、もっとも長い40年の在位期間を保った。しかし、亮の死後は宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)を寵愛(ちょうあい)して国政を乱し、姜維(きょうい)が剣閣(けんかく)で鍾会(しょうかい)と戦っている最中、陰平(いんぺい)郡より侵攻した鄧艾(とうがい)に驚き、譙周(しょうしゅう)の勧めで降服した。五男の北地(ほくち)王劉諶(りゅうじん)は、徹底抗戦を主張したが聞き入れられず、妻子とともに自害した。あるとき、司馬昭(しばしょう)が宴会で蜀の音楽を演奏させると、蜀の旧臣はみな涙を落とした。しかし、劉禅は平然と笑っていた。司馬昭は、「これでは諸葛亮が生きていても国を保つのは無理であろう。まして姜維では」とあきれたという。三国を統一した西晋(せいしん)で安楽侯(あんらくこう)に封建され、天寿を全うした。
[渡邉義浩]
『渡邉義浩著『「三国志」武将34選』(PHP文庫)』