日本大百科全書(ニッポニカ) 「讃岐寛延一揆」の意味・わかりやすい解説
讃岐寛延一揆
さぬきかんえんいっき
讃岐国(香川県)丸亀(まるがめ)、多度津(たどつ)の両藩で1750年(寛延3)正月、多度と三豊(みとよ)両郡の農民が、苛政(かせい)反対と用銀返済などを要求して蜂起(ほうき)した大一揆。当時、両藩では連年の凶作と飢饉(ききん)によって領民たちは大いに疲弊していた。とくに農民層の不満は、各種の嘆願が村役人や出先の藩役人によって無視されて、藩中枢に達しなかったことにある。正月15日に帆ノ山と碑殿村百姓が蜂起したのをはじめ、96か村7000人ほどが徒党したと記録する。月末に至りようやく農民の要求を一部かなえるため、用銀返還の措置がとられた。参加人員は一万数千人という。その後に一揆指導者の詮議(せんぎ)を始め、両藩では7月28日に騒動頭取(とうどり)12人の仕置きを決定し、その他24人の処分が行われた。
[三好昭一郎]
『『新修丸亀市史』(1971・丸亀市)』▽『佐々栄三郎著『西讃百姓一揆始末』(1976・讃文社)』