多度津(読み)タドツ

デジタル大辞泉 「多度津」の意味・読み・例文・類語

たどつ【多度津】

香川県北西部仲多度郡地名瀬戸内海に面し、金毘羅参りの上陸地として発達

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精選版 日本国語大辞典 「多度津」の意味・読み・例文・類語

たどつ【多度津】

(多度郡の津(港)であるところから) 香川県西部の地名。古くから港町として開け、金刀比羅宮善通寺参詣の要地となる。JR予讚線と土讚線分岐点

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日本歴史地名大系 「多度津」の解説

多度津
たどつ

備讃瀬戸の西寄り、塩飽しわく諸島を望む多度津町市街地の北にあり、さくら川河口に発達した古代以来の港津。津名は多度郡の郡名に由来するのであろう。土佐国吉祥きつしよう寺の什物であった涅槃画像(高知県香美郡土佐山田町談議所集落保管)の嘉元三年(一三〇五)一〇月日銘の裏書に「奉施入讃岐国多度津毘沙門堂」とあり、当津にあった毘沙門堂に絵師都大夫法眼によって涅槃図が寄進されている。また南北朝期には尼僧が庵を構えていた(康永四年二月一五日「藤原陰高売券」道隆寺文書)。応永一九年(一四一二)八月一八日の京都北野社一切経供養に際して書写された大報恩だいほうおん(現京都市上京区)の大般若経の奥書に多度津道隆どうりゆう寺の住持良祐らの僧名がみえる。

康応元年(一三八九)三月の将軍足利義満の安芸厳島詣に随行した今川了俊は「鹿苑院殿厳島詣記」二二日条に、

<資料は省略されています>

と記している。強風でも風波の影響を受けることの少ない良港であったことが推察され、宇多津うたづ(現綾歌郡宇多津町)へは陸路より海沿いに行ったほうが至便であったようである。

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改訂新版 世界大百科事典 「多度津」の意味・わかりやすい解説

多度津[町] (たどつ)

香川県西部,仲多度郡の町。人口2万3498(2010)。神功皇后が〈三韓征伐〉のとき寄港したところといわれ,江戸時代は金刀比羅(ことひら)参詣客の上陸港として東隣の丸亀港とともに栄えた。1889年に丸亀~多度津~琴平間に県下最初の鉄道が開通し,その後予讃線,土讃線の分岐点として鉄道交通の要衝となり,国鉄(現JR)多度津工場,四国電力火力発電所などができた。1974年に町単独による海岸埋立工事が完成し,臨海工業地区が形成された。町の西部にある桃陵公園は多度津藩主の下屋敷を開放したもので,現在は県立公園となり,桜の名所として知られる。公園の南麓には少林寺拳法日本総本山がある。
執筆者:

讃岐国多度郡の港として古くから内海航路の要衝をなし,室町時代には西讃岐の守護代であった香川氏が居館を置いた。1664年(寛文4)の村高は745石余。94年(元禄7)に丸亀藩京極氏の支藩として多度津藩1万石が成立した。しかし藩庁は置かれず,重臣が派遣されていた。のち1827年(文政10)に陣屋が設置され,家臣の屋敷も建てられた。元禄ごろから金刀比羅信仰が盛んになるにつれて参詣者の上陸地として栄え,また廻船業も盛んであった。48年(嘉永1)の戸数は859軒と増え,人口は3101人であった。
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