日本歴史地名大系 「丸亀市」の解説 丸亀市まるがめし 面積:六五・三四平方キロ県の中西部に位置し、瀬戸内海に面する。東西にそれぞれ土器(どき)川・金倉(かなくら)川が北流し、その流域に発達した丸亀平野が市域全体を占める。かつての丸亀城下を中心に、周辺の旧丸亀藩領・高松藩領各村および塩飽(しわく)諸島の一部を合併して成立した。市名は城および城下の名称にちなむ。東は青(あお)ノ山(二二四・五メートル)を境に綾歌(あやうた)郡宇多津(うたづ)町、讃岐富士と称される飯野(いいの)山(四二一・九メートル)を境に坂出市・綾歌郡飯山(はんざん)町、土器川を境に飯山町・同郡綾歌町、南は仲多度(なかたど)郡満濃(まんのう)町、西は同郡多度津(たどつ)町と善通寺市に接する。瀬戸内海沖合には塩飽諸島の牛(うし)島・本(ほん)島・広(ひろ)島・手(て)島・小手(おて)島が浮ぶ。市域の北部は旧丸亀町域、海岸部に埋立地が広がり、南部は農村地帯。北に予讃線、中央部に国道一一号が東西に通る。〔原始・古代〕旧石器および縄文期の遺跡は発見されていない。弥生遺跡としては西部の中の池(なかのいけ)遺跡が弥生前期の環濠集落とされ、また青ノ山および飯野山周辺からもサヌカイト製石器や弥生式土器が発見されている。島嶼部では弥生中期の高地性集落とされる心経山(しんぎようざん)遺跡(広島)が注目される。青ノ山山頂から山麓に十数基の後期古墳群があり、当時半島であったと考えられる同山一帯に海と関係する集団の生活圏があったとされている。吉岡神社(よしおかじんじや)古墳は全長約五〇メートルの前期前方後円墳であるが、周辺の他古墳との連続性はない。島嶼部の向(むかい)島や広島では師楽式土器を出土した。古代の「和名抄」鵜足(うた)郡の津野(つの)郷・二村(ふたむら)郷・小川(おがわ)郷、那珂(なか)郡の郡家(ぐんけ)郷・垂水(たるみ)郷・金倉郷・柳原(やなぎはら)(柞原)郷が市域に比定される。那珂郡の中心は郡家で、南海道が地内を通ったと考えられる。地内からは奈良―平安期の瓦が出土しており郡衙庁跡地とされている。宝幢(ほうどう)寺跡は白鳳期―平安期の寺の存在が確認されており、天平一九年(七四七)法隆寺伽藍縁起并流記資財帳に載る法隆寺領那珂郡三処の一つとされる。「万葉集」巻二に収める柿本人麻呂の長歌にみえる「中の水門」は那珂郡の津と考えられ、当時の金倉川河口部、現津森(つのもり)町から中津(なかづ)町一帯に比定される。那珂郡の条里は亀(かめ)山を基準に金倉川左岸まで六条あり、三条(さんじよう)など多くの地名を残す。青ノ山西麓に郡屋(こおりや)の地名があり、鵜足郡郡衙庁所在地と伝える。 丸亀市まるがめし 2005年3月22日:丸亀市と綾歌郡綾歌町・飯山町が合併⇒【綾歌町】香川県:綾歌郡⇒【飯山町】香川県:綾歌郡⇒【丸亀市】香川県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「丸亀市」の意味・わかりやすい解説 丸亀〔市〕まるがめ 香川県西部,備讃瀬戸に臨み,ほぼ全域を丸亀平野で占められる市。塩飽諸島の広島,本島,手島,牛島を含む。 1899年市制。 1917年六郷村,1951年南村,1954年本島村,川西村,土器村,郡家村,1955年飯野村の大部分,1958年広島村,垂水村をそれぞれ編入。 2005年綾歌町,飯山町の2町と合体。中心市街地は,讃岐岩質安山岩の亀山 (67m) 上に築かれた丸亀城の城下町として発達。城跡は史跡に指定。江戸末期には東方からの金刀比羅参りの船着場としてにぎわい,大坂との間に定期船があった。明治になり軍隊が置かれたが,その施設跡地は現在市役所などの官公庁や学校地区となり市の中心をなす。日本一のうちわ産地で,塩田跡の埋立地に化学,合板などの工業団地が形成。周辺の農村部では米,野菜の栽培が行なわれる。条里制遺構,古代遺跡,与謝蕪村ゆかりの妙法寺,本島の千歳座の舞台や塩飽勤番所跡 (国指定史跡) などがある。市の東部は瀬戸内海国立公園に属する。市域北部を JR予讃線と国道 11号線,南部を高松琴平電鉄琴平線と国道 32号線,さらに中央を南北に国道 438号線が通る。また,丸亀港からは下津井港 (岡山県) ,本島,広島へ定期船の便がある。面積 111.83km2。人口 10万9513(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by