赤荻村
あこおぎむら
山目村の西、磐井川北岸にある。南部を東西に院内街道が走る。寛永一九年(一六四二)の赤荻村検地帳(鈴木文書)によれば、田一二三町七反余・代一五五貫七九二文、畑八三町三反余・代二七貫八〇一文、茶畑八畝余・代一八八文、名請人数七四。正保郷帳では田一四五貫九七三文・畑二七貫六〇八文、ほかに新田一〇貫二〇〇文がある。「安永風土記」では田一六二貫二九八文・畑三四貫八二一文(うち茶畑一八八文)、うち蔵入一九二貫七四九文・給所二貫二八三文、大肝入役料八七文・百姓知行二貫文。人頭二三九(うち抱地高指引人三)・家数二四〇(うち水呑一)、男五五八・女五一九、馬一六四。御林五、堤二〇があり、上台に御買米蔵一棟が置かれていた。代数有之百姓は二三人、産物として麻・紅花、小名は笹谷・外山・若宮・十三本田・中城沢・鶴巻・杭丁・立沢・本宿、屋敷名五二をあげる。
赤荻村
あこぎむら
[現在地名]成田市赤荻
和田村の北に位置。赤萩村と誤記される場合もある。檀那門跡相承資(逢善寺文書)の康暦二年(一三八〇)四月七日の什覚注記に、什覚の師真海の居住先として「大須賀保内赤荻」がみえる。また同書宝徳四年(一四五二)三月一九日の弘尊注記によると、「埴生庄釜山」の明尊が「赤荻ノ小野ノ下」において学問し、聖教を当地にもたらしたことなどが知られる。寛永一一年(一六三四)の年貢割付状(大木家文書)に香取郡大須賀庄赤荻村とある。「寛文朱印留」では佐倉藩領で、以後幕末まで変わらない。元禄郷帳では高四一四石余。ほか享保一六年(一七三一)に高請された切添新田一七石余があり、同地は幕府領(旧高旧領取調帳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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