平安後期の武将。生没年不詳。清原氏は,〈出羽山北(せんぼく)の俘囚(ふしゆう)主〉といわれていて,出羽国の雄勝,平鹿,仙北の3郡の司であり,その地方の蝦夷を支配する家柄の豪族であった。系図によれば,武則は右大臣清原夏野の後裔で,兵部大輔清原光方の子ということになっているが,清原氏のことを俘囚(帰降した蝦夷)といっている史料もある。前九年の役(1051-62)で安倍頼時・貞任(さだとう)と源頼義・義家とが戦ったとき,頼義の請によって出兵し,その勝利に決定的な貢献をした。1062年(康平5)7月1万余人といわれる兵を率いて出兵した武則は,3000余人といわれる頼義軍と合同し,安倍氏を小松柵,鳥海柵,黒沢尻柵と追い,9月17日厨川柵(盛岡市)をおとして,安倍貞任を討った。その功によって,翌年従五位下鎮守府将軍に任ぜられ,これまでの3郡に安倍氏の旧領である奥6郡をもあわせて領し,奥羽最大の政治勢力となった。
執筆者:大石 直正
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生没年不詳。平安後期の武将。出羽山北(でわせんぽく)の俘囚主(ふしゅうしゅ)清原光頼(みつより)の弟。「清原氏系図」のなかには兵部大輔(ひょうぶだいぶ)光方(みつかた)の子として天武(てんむ)天皇―舎人(とねり)親王に結び付けるものもあるが、俘囚主清原氏は本来山北(秋田県横手(よこて)盆地)在地の豪族であると認められる。前九年の役で陸奥(むつ)安倍(あべ)氏の地力に手を焼いていた陸奥守(むつのかみ)・鎮守府将軍源頼義(よりよし)とその子義家(よしいえ)を助け、1062年(康平5)1万の清原軍を率いて3000の源軍と陸奥国(宮城県)栗原(くりはら)郡営岡(たむろがおか)で合流。8月16日小松柵(こまつのさく)を落としたのを手始めに、衣川(ころもがわ)、大麻生野(おおあそうの)、瀬原(せばら)、鳥海(とりうみ)、黒沢尻(くろさわじり)、鶴脛(つるはぎ)、比與鳥(ひよどり)の諸柵を破り、9月16日厨川(くりやがわ)、嫗戸(うばと)2柵を囲み、翌日攻略、安倍氏を滅ぼした。功績により翌年従(じゅ)五位下鎮守府将軍となり奥六郡も領する。
[新野直吉]
『新野直吉著『古代東北の覇者』(中公新書)』▽『新野直吉著『古代東北史の人々』(1978・吉川弘文館)』
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(朧谷寿)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
生没年不詳。平安中・後期の武将。出羽国仙北郡の俘囚(ふしゅう)長。光方の子。前九年の役で苦戦中の源頼義からの支援要請をうけ,1062年(康平5)軍兵を率いて陸奥国に赴く。清原一族の参戦により,戦況は一気に頼義側に有利となり,安倍軍は壊滅。武則はこの功により,翌年従五位下に叙せられ,鎮守府将軍に任じられた。以後,奥六郡を勢力下に加え,奥羽に強固な基盤を築きあげた。
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