清原武則(読み)キヨハラノタケノリ

デジタル大辞泉 「清原武則」の意味・読み・例文・類語

きよはら‐の‐たけのり【清原武則】

平安後期武将出羽俘囚ふしゅうの長。前九年の役で、安倍貞任宗任討伐に苦しむ源頼義義家を助けて活躍鎮守府将軍に任じられた。以後陸奥・出羽に勢力を得る。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「清原武則」の意味・読み・例文・類語

きよはら‐の‐たけのり【清原武則】

  1. 平安後期の武将。出羽の俘囚(ふしゅう)の長。前九年の役で安倍頼時を討伐した源頼義の求めに応じて、安倍貞任、宗任の反乱を康平五年(一〇六二)に平定。戦功によって鎮守府将軍に任じられ、以後、陸奥、出羽に勢力を得る。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「清原武則」の意味・わかりやすい解説

清原武則 (きよはらのたけのり)

平安後期の武将。生没年不詳。清原氏は,〈出羽山北せんぼく)の俘囚(ふしゆう)主〉といわれていて,出羽国の雄勝平鹿,仙北の3郡の司であり,その地方の蝦夷を支配する家柄の豪族であった。系図によれば,武則は右大臣清原夏野の後裔で,兵部大輔清原光方の子ということになっているが,清原氏のことを俘囚(帰降した蝦夷)といっている史料もある。前九年の役(1051-62)で安倍頼時・貞任(さだとう)と源頼義・義家とが戦ったとき,頼義の請によって出兵し,その勝利に決定的な貢献をした。1062年(康平5)7月1万余人といわれる兵を率いて出兵した武則は,3000余人といわれる頼義軍と合同し,安倍氏小松柵,鳥海柵,黒沢尻柵と追い,9月17日厨川柵(盛岡市)をおとして,安倍貞任を討った。その功によって,翌年従五位下鎮守府将軍に任ぜられ,これまでの3郡に安倍氏の旧領である奥6郡をもあわせて領し,奥羽最大の政治勢力となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清原武則」の意味・わかりやすい解説

清原武則
きよはらのたけのり

生没年不詳。平安後期の武将。出羽山北(でわせんぽく)の俘囚主(ふしゅうしゅ)清原光頼(みつより)の弟。「清原氏系図」のなかには兵部大輔(ひょうぶだいぶ)光方(みつかた)の子として天武(てんむ)天皇―舎人(とねり)親王に結び付けるものもあるが、俘囚主清原氏は本来山北(秋田県横手(よこて)盆地)在地の豪族であると認められる。前九年の役で陸奥(むつ)安倍(あべ)氏の地力に手を焼いていた陸奥守(むつのかみ)・鎮守府将軍源頼義(よりよし)とその子義家(よしいえ)を助け、1062年(康平5)1万の清原軍を率いて3000の源軍と陸奥国(宮城県)栗原(くりはら)郡営岡(たむろがおか)で合流。8月16日小松柵(こまつのさく)を落としたのを手始めに、衣川(ころもがわ)、大麻生野(おおあそうの)、瀬原(せばら)、鳥海(とりうみ)、黒沢尻(くろさわじり)、鶴脛(つるはぎ)、比與鳥(ひよどり)の諸柵を破り、9月16日厨川(くりやがわ)、嫗戸(うばと)2柵を囲み、翌日攻略、安倍氏を滅ぼした。功績により翌年従(じゅ)五位下鎮守府将軍となり奥六郡も領する。

[新野直吉]

『新野直吉著『古代東北の覇者』(中公新書)』『新野直吉著『古代東北史の人々』(1978・吉川弘文館)』

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百科事典マイペディア 「清原武則」の意味・わかりやすい解説

清原武則【きよはらのたけのり】

平安後期の武将。生没年不詳。清原氏は出羽(でわ)の俘囚(ふしゅう)の主(ぬし)といわれた。前九年(ぜんくねん)の役で安倍氏を討った功で1063年鎮守府(ちんじゅふ)将軍に任ぜられた。
→関連項目金沢柵藤原清衡

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清原武則」の意味・わかりやすい解説

清原武則
きよはらのたけのり

平安時代後期の出羽山北 (雄物川上流の雄勝,平賀,仙北3郡の盆地) の俘囚 (帰順した蝦夷) の長。天喜5 (1057) 年,安倍頼時を討った源頼義,義家父子が,頼時の子貞任,宗任征伐に苦戦し,援軍を求めてきたとき武則は1万余の軍勢を率いて陸奥に入り,康平5 (62) 年8月,栗原郡営岡 (たむろがおか) で 3000の頼義軍に合流して小松,衣川,鳥海,黒沢尻,厨川のを攻略したので,前後 12年に及ぶ前九年の役も終結。翌年2月,武則は鎮守府将軍に任じられ,安倍氏の奥6郡を得て,奥州の半独立的政権を形成した。

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朝日日本歴史人物事典 「清原武則」の解説

清原武則

生年:生没年不詳
平安中期の東北地方の豪族。父は光方。出羽国仙北(古代の雄勝,平鹿,山本の3郡。秋田県)の「浮囚長」。康平5(1062)年,前九年の役で陸奥守源頼義による安倍氏攻略に当たり,頼義から援軍の要請を受けたが当初,応じなかった。途中から3000の頼義軍を上回る1万の兵を率いて戦い,1カ月で勝利に導いた。この献身ぶりを頼義の子義家は「武則の忠によって朝廷の権威を保つことができた」とほめたたえた。軍功によって翌年鎮守府将軍に任じられ,安倍氏の所領も手中にし,奥羽2国にまたがる清原氏の基盤を築いた。

(朧谷寿)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清原武則」の解説

清原武則 きよはらの-たけのり

?-? 平安時代中期-後期の武人。
清原武貞,清原武衡(たけひら)の父。出羽(でわ)山北(せんぼく)(秋田県)の豪族。前九年の役で源頼義(よりよし)につき,陸奥(むつ)厨川柵(くりやがわのさく)(岩手県)で安倍貞任(あべの-さだとう)をほろぼす。功により康平6年(1063)鎮守府将軍に任じられ,出羽三郡にくわえて安倍氏の旧領の奥六郡を領有した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「清原武則」の解説

清原武則
きよはらのたけのり

生没年不詳。平安中・後期の武将。出羽国仙北郡の俘囚(ふしゅう)長。光方の子。前九年の役で苦戦中の源頼義からの支援要請をうけ,1062年(康平5)軍兵を率いて陸奥国に赴く。清原一族の参戦により,戦況は一気に頼義側に有利となり,安倍軍は壊滅。武則はこの功により,翌年従五位下に叙せられ,鎮守府将軍に任じられた。以後,奥六郡を勢力下に加え,奥羽に強固な基盤を築きあげた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「清原武則」の解説

清原武則
きよはらのたけのり

生没年不詳
平安中期の出羽の豪族
俘囚 (ふしゆう) の長。前九年の役(1051〜62)に源頼義・義家を助けて安倍貞任 (さだとう) 征討に尽力。功により1063年鎮守府将軍となり,安倍氏の旧領をあわせて奥羽の大勢力となった。

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