デジタル大辞泉
「成田市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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成田市
なりたし
面積:一三一・二七平方キロ
県の北部中央に位置し、東は香取郡大栄町・山武郡芝山町、南は印旛郡富里町・酒々井町、西は印旛郡栄町と印旛沼を隔てて同郡印旛村・本埜村、北は香取郡下総町と利根川を挟み茨城県稲敷郡河内村。市域中央を北流する根木名川は取香川・荒海川・小橋川などの支流を合せて利根川に注ぐ。根木名川は古くは新妻川ともよばれ、蛇行が多いことから九十九曲川ともよばれた。市域は県北部の下総台地の一角を占め、根木名川および印旛沼べりは沖積低地の地層で構成される。おもな道路は市域東部を南西から北東に貫通する国道五一号と東関東自動車道をはじめ、国道二九五号・二九六号・三五六号・四〇八号・四〇九号・四六四号があり、このうち二九五号・四〇八号・四〇九号・四六四号は市内を起点としている。主要地方道としては成田―安食線・成田―小見川―鹿島港線・成田―松尾線・横芝―下総線・成田―江戸崎線などがある。鉄道はJR成田駅を起点に千葉・我孫子・佐原・新東京国際空港(通称成田空港)方面の四つの路線があり、成田駅・下総松崎駅・久住駅・成田空港駅・空港第二ビル駅が設けられている。首都圏と成田および新東京国際空港を結ぶ京成電鉄もあり、公津の杜駅・京成成田駅・東成田駅・空港第二ビル駅・成田空港駅がある。
〔原始・古代〕
三里塚の古込遺跡(三里塚第55遺跡)から出土した局部磨製石器は旧石器時代のもので、県内最古の遺物とされている。旧石器時代の遺跡は二〇ヵ所ほどであるが、縄文時代の遺跡になると二〇〇ヵ所を超える。なかでも荒海貝塚は荒海式土器の名とともに、南関東地方における晩期最終末期の標式貝塚として知られる。平成六年(一九九四)には南羽鳥の中岫遺跡から縄文前期の人頭形土製品が出土し話題となった。古墳時代に入ると公津原古墳群をはじめ、大竹上福田古墳群・宝田押畑古墳群など二一の古墳群があり、三〇〇基以上の古墳が確認されている。なかでも赤坂の船塚古墳は全長八五メートルにも及ぶ市内最大の古墳である。平安時代の市域は埴生郡と一部が印旛郡・香取郡に属し、「和名抄」にみえる埴生郡の玉作郷・山方郷・酢取郷、印旛郡八代郷、香取郡礒部郷が市域に比定されている。各郷の比定地を現在の大字で示すと玉作郷が大竹・松崎・玉造周辺、山方郷が郷部・成田周辺、酢鳥郷は羽鳥の誤記といわれ北羽鳥・南羽鳥周辺、八代郷が八代・台方周辺、礒部郷が磯部周辺と考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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成田〔市〕
なりた
千葉県北部,利根川下流右岸から下総台地にかけて広がる市。利根川を挟み,北で茨城県に接する。1889年町制。1954年成田町と公津村,八生村,中郷村,久住村,豊住村,遠山村の 6村が合体して市制施行。2006年下総町,大栄町を編入。台地部分は水利に恵まれず,近世末まで野馬放牧地(→佐倉七牧)に利用されていたが,明治以降開発が進み,大規模経営によるラッカセイ,サツマイモの栽培が行なわれるようになった。第2次世界大戦後はハクサイ,スイカなど園芸農業が普及したが,雑木林やマツ林も多く残り,宮内庁御料牧場も置かれた。中心市街地の成田は近世中期以降の成田山新勝寺の不動尊信仰により門前町として繁栄。境内の仁王門,三重塔など五つの建造物が国指定重要文化財。印旛沼に臨む低地では水田が多い。市域西部は印旛手賀県立自然公園に含まれ,その北の栄町にまたがる古墳群,古寺跡などは県立房総のむらとして整備され,園内に建つ旧学習院初等科正堂,旧御子神家住宅は国指定重要文化財。滑川の滑河観音と呼ばれる竜正院の仁王門も国の重要文化財に指定されている。南東部の三里塚にあった御料牧場を中心とした地域に,成田国際空港がある。JR成田線成田駅の西部に,成田ニュータウンがある。国道51号線,356号線,408号線,464号線が通り,東関東自動車道の大栄インターチェンジ,成田インターチェンジがある。面積 213.84km2。人口 13万2906(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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