超願寺跡(読み)ちようがんじあと

日本歴史地名大系 「超願寺跡」の解説

超願寺跡
ちようがんじあと

[現在地名]東洋町甲浦

西股にしまたの西端から奥へ約二丁、なだらかな道を上ると、山麓石垣と小堂が残る。浄土宗知恩院末で南谷山智光院と号した。承元元年(一二〇七)土佐国幡多はたなか(現中村市)への配流が決った法然が、甲浦かんのうらまで送られてここに数ヵ月滞在し、やがて配流先が九条兼実の所領讃岐国小松こまつ庄に変更されてそちらへ移ったという伝承があるが、その時の法然滞在の跡が超願寺であるという。

天正一七年(一五八九)の甲浦地検帳には合計七反一代三歩の屋敷と所領が「超願寺源蓮社持」とされる。「土佐州郡志」によれば、僧源蓮社は長宗我部元親の親戚にあたり国政にもあずかったが、のち城下浄福じようふく寺の住持になったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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