精選版 日本国語大辞典 「法然」の意味・読み・例文・類語
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(梅原猛)
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1133.4.7~1212.1.25
平安末~鎌倉初期に日本浄土宗を開創した僧侶。法然は房号で,諱は源空(げんくう)。諡号は円光大師など。美作国生れ。父は稲岡荘の押領使漆間(うるま)時国。母は秦氏。9歳で父を亡くし,1147年(久安3)に延暦寺にのぼり,皇円(こうえん)を師として出家し,延暦寺戒壇で受戒。50年には西塔の黒谷(くろだに)に遁世して,慈眼房叡空(えいくう)の弟子となり,法然房源空と名のった。75年(安元元)43歳のとき,善導著「観無量寿経疏(しょ)」によって専修念仏に帰し,浄土宗の開創をめざした。まもなく延暦寺をおりて,東山吉水で自己の所信をひろめ,隆寛(りゅうかん)・親鸞(しんらん)・九条兼実(かねざね)ほか多くの弟子・信者を獲得したが,旧仏教勢力の迫害をうけた。1207年(承元元)2月には土佐国に流され(実際は讃岐),同年12月にゆるされた。著書「選択(せんちゃく)本願念仏集」「一枚起請文」。
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…法然門下におこった念仏往生に関する論争。弥陀の本願を信じておこす,ひとたびの念仏で往生できるとするのが一念義,往生には臨終までできるだけ多くの念仏を唱える必要があるとするのが多念義。…
…法然の作。念仏の要義を1枚の紙に平易な文章で書き,釈迦・弥陀に偽りのないことを誓った文。…
…山号は坂松山。法然が1185年(文治1)慈円の請いを受け,四天王寺の西門辺,荒陵(あらはか)と呼ばれた現地に仏堂を建て,新別所と称したのに始まり,後白河法皇が四天王寺参詣の際,ここを訪れて法然と共に日想観を修したという。〈阿弥陀仏といふより外は津の国の難波の事もあしかりぬべし〉の歌はこの時法然が詠んだと伝える。…
…内容は(1)厭離穢土(おんりえど),(2)欣求(ごんぐ)浄土,(3)極楽証拠,(4)正修念仏,(5)助念方法,(6)別時念仏,(7)念仏利益(りやく),(8)念仏証拠,(9)往生諸業,(10)問答料簡(りようけん)の10章(大文)から成り,第4,5,6章が本書の中核部分で,念仏の正しい在り方を説く。ただ源信のいう念仏は,阿弥陀仏の姿形を観察する〈観想〉と,阿弥陀仏の名号をとなえる〈称名〉との両義に用い,どちらかといえば〈観想〉に比重が置かれ,また念仏以外の諸行を否定せず,鎌倉時代の法然,親鸞の浄土教思想に比べて徹底さに欠けるところがあった。 しかし,本書が後世の浄土教思想・文学・美術等に与えた影響は計り知れないものがあり,もっとも多くの人に読まれた仏書であるといえる。…
…1186年(文治2)浄土宗の開祖法然が天台宗の学匠顕真の招請をうけ,洛北大原の勝林院において諸宗の碩学を相手に論議したこと。大原問答ともいう。…
…1274年(文永11)11月から翌年1月の間に成立。浄土宗の宗祖法然房源空の遺文,消息,法語などを集成したもの。全18巻からなる。…
…また讃岐国は後白河法皇以後断続的に院分国となった。なお,1207年(承元1)法然が讃岐に配流となり,浄土宗の展開をもたらした。 南北朝・室町時代,讃岐は細川氏嫡流,京兆(けいちよう)家の根本分国として重要な政治的役割をになった。…
…ただし,慧遠を中心とする結社は高僧隠士の求道の集まりで,主として《般舟三昧経》に依拠して見仏を期し,各人が三昧の境地を体得しようと志すものであって,ひろく大衆を対象とする信仰運動ではなかった。日本の法然,親鸞らを導いた純浄土教義と信仰は,北魏末の曇鸞(どんらん)に始まり,道綽(どうしやく)を経て善導によって大成される。はじめ竜樹系の空思想に親しんでいた曇鸞は,洛陽でインド僧の菩提流支に会い,新訳の世親撰《無量寿経論》を示されて浄土教に回心し,のち山西の玄中寺でこれを注解した《往生論註》を撰述し,仏道修行の道として仏の本願力に乗ずる易行道につくことを宣布するとともに,いわゆる〈浄土三部経〉を浄土往生の信仰の中心とする浄土教義をうちたてた。…
…法然によって開かれた仏教の一宗派。《無量寿経》《観無量寿経》《阿弥陀経》の三経(浄土三部経)とインドの世親の著した《浄土論》を正依の経論とし,称名(しようみよう)念仏(南無阿弥陀仏と口に称える)によって,阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することを期す。…
…藤原純友の乱,治承・寿永の内乱の戦場ともなった。《法然上人行状画図》に1207年(承元1)3月讃岐に配流となった法然は塩飽に立ち寄り,地頭駿河権守高階時遠入道西忍の館で好遇をうけたとある。46年(寛元4)3月,《吾妻鏡》に海賊追捕の功労者としてみえる讃岐国御家人藤左衛門尉(香川郡司家資)の子孫が島年寄宮本氏,吉田氏の祖という。…
…比叡山で堂僧として20年の修行をつんだが悟りを得ず,1201年(建仁1)29歳のとき京都六角堂に参籠して本尊救世観音に指針を求めた。このとき聖徳太子の示現を得て,法然(源空)の門に入った。法然の主著《選択(せんちやく)本願念仏集》は専修(せんじゆ)念仏をよく理解した高弟にのみ見写が許されたが,05年(元久2)4月,親鸞は入門5年で書写を認められ,法然みずから題字と僧綽空(しやくくう)という当時の親鸞の名を書いて与えた。…
…浄土に往生するため,念仏以外の行をまじえず,〈南無阿弥陀仏〉とただひたすらに念仏を唱えること。法然やその門流の宗教的立場を端的に示す語である。広義には,思想的,教団的に浄土宗の立場にあることを示し,他宗からは単に専修,または専修僧,専修念仏宗などとよばれた。…
…浄土宗の開祖法然の著作。1198年(建久9)法然66歳のとき,前関白九条兼実の懇請により著した。…
…また則天武后の発願になる竜門石窟の盧舎那仏の造立を監督したのも善導であった。主著に《観無量寿経疏》4巻などがあり,日本の法然や親鸞の浄土信仰に強い影響を与えた。【礪波 護】 善導の著作は奈良時代の前半に日本に伝わり,なかでも《西方法事讃》《往生礼讃》《観無量寿経疏》などは数多く書写され,その影響の著しかったことが知られる。…
…1082年(永保2)永観は念仏行道のとき,弥陀顧命(みかえり)の相を感得して,本尊としたと伝え,その教化はひろく僧俗に及んだので,禅林寺は中興と称される永観の名をとって,永観堂と呼ばれるようになった。そののち真言浄土の僧珍海が入寺し,また浄土宗の祖法然房源空の門下に入った真言僧の静遍が住持すると,源空を招請して開山としたので,禅林寺は浄土宗に転じることとなった。そのあとには源空の弟子で浄土宗西山の派祖証空が入寺し,ついで2代は藤原氏出身の園城寺の僧が続いたが,17世に西山派西谷流の祖浄音が住持して以来同派の寺となった。…
…その心意には弥陀の本願力に身をあずけた真実の願いが籠められているが,後に他人まかせとか,もっぱら他人の力をあてにするといったような意味に悪用された。法然は,他力,すなわち阿弥陀仏の願力によって浄土に往生できる条件について,念仏をとなえても往生は定まっていないと少しでも疑念をもてば,仏の願力を借りて往生することはできず,また道心をさきとし,本願をおもうことをあとにすれば,この場合も阿弥陀仏の力で往生させてもらうことはできないと述べ,〈他力本願に乗ずるに二あり〉として〈一には罪つくる時乗ずるなり。その故は,かくのごとく罪をつくれば,決定して地獄におつべし。…
…岡山県久米郡久米南町にある浄土宗の寺。栃社(とちこそ)山浄土院と号し,浄土宗の開祖法然の生誕地に建てたもの。草創に関しては,父の漆間(うるま)時国が館の西の椋(むく)のそばに寺を建て,法然が43歳のとき自作の御影(みえい)を京都より送ったという寺伝があるが,確証はない。…
…承和年間(834‐848)慈覚大師が嵯峨天皇の命で創建したと伝え,釈迦と阿弥陀の二尊を本尊にしたのが寺名の由来という。鎌倉時代,浄土宗の宗祖法然が当寺に拠って念仏をひろめ堂舎を復興し,そのあと弟子の湛空,叡空らが継ぎ,天台・真言・律・浄土四宗兼学の寺となり,代々の住持で天皇の戒師となるものも多く,寺勢も盛んとなった。南北朝の内乱と応仁の乱で焼失したが,それぞれ足利義教や三条西実隆らの尽力で再興された。…
…南無阿弥陀仏と弥陀の名号を唱えて,極楽浄土への往生を期する,いわば〈念仏宗〉ともいうべき新宗派があいついで出現した。法然が開いた浄土宗,その弟子親鸞が立てた浄土真宗,さらに一遍を祖とする時宗がそれである。法然は諸行を捨て念仏の一行を選んだが,彼はその念仏はすでに弥陀によって選択されていた本願の念仏であったとし,念仏に絶対の価値を認めた。…
…いわゆる鎌倉新仏教の成立である。念仏門の系統から,まず法然(源空)が日本浄土宗を開いた。法然は主著《選択(せんちやく)本願念仏集》を著し,富と知識を独占する貴族しかできない造寺・造仏・学解・持戒などの意義を退け,往生の要諦は阿弥陀―仏を信じて,念仏だけを唱えること(一向専修)で,これにより人びとは貴賤・男女の差別なく在家の生活のまま往生できると説いた。…
…新宗派浄土宗を立て,専修念仏を説いて念仏信仰を広めた,法然上人の生涯の行状を描いた絵巻。法然没後25年の1237年(嘉禎3)に作られた《法然上人伝法絵》(2巻,原本は遺らず)が最も早く,しだいに内容を増大させ,〈増上寺本〉,九巻本《法然聖人伝絵》(琳阿本),1301年(正安3)撰の《拾遺古徳伝》,《法然聖人絵》(弘願本,4巻が知られる)などの諸本,さらに全48巻の浩瀚な《法然上人行状絵図》(知恩院)に至るまで,浄土宗の発展とともに多種多様な傑作が生み出され広まっていった。…
※「法然」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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