甲浦村(読み)かんのうらむら

日本歴史地名大系 「甲浦村」の解説

甲浦村
かんのうらむら

[現在地名]東洋町甲浦

北は阿波国、南東は太平洋に面し、南西は白浜しらはま村と河内かわうち村。Y字形に湾入した入江のうち東方を東股ひがしまた、西方を西股とよぶ。土佐街道(東街道)が通り、山を背にした片側だけの家並が村の中心をなす。古来この地は阿波・上方方面からの土佐国の玄関とされ、室戸岬に至る三五キロの間には良港がないために避難・寄港の地としても重要な役割を果してきた。桜津さくらづかぶとヶ浦・甲の浦・神浦かんのうらなどの別称がある。桜津は仲哀天皇が諸国巡幸の折、桜花が四方の山に満ちていたので命名したと伝え、甲ヶ浦・甲の浦は、昔この湾で甲貝がとれたからとも、また入江の形や港の中央に鎮座する熊野神社の森の形から生じたともいわれる。神浦は熊野神社を港頭に祀るゆえである。港を出ると正面にくず島があり、西方赤葉あかば島との間の水路が土佐口、阿波領たけヶ島(現徳島県海部郡宍喰町)との間が京口で、京口に浮ぶ二子ふたご島を土佐・阿波の国境としてきた。

平安初期、空海が室戸岬に修行に赴き、中頃紀貫之が海路帰京した際にもこの港を経由したと思われるが、記録にはない。熊野神社を勧請したと伝える平安末期には、家数がわずか七軒であったと伝えるが、良港ではあっても耕地には恵まれない土地柄ゆえ、村としての発達は遅かったかもしれない。なお承元元年(一二〇七)土佐の幡多はたへ配流されることになった法然が、甲浦まで来て配流先が讃岐へ変更になり、その際一時滞留したところが超願ちようがん寺になったという伝えもある。中世の甲浦の繁栄を直接知る史料はないが、兵庫津に入港した文安二年(一四四五)一年間の船について記した「兵庫北関入船納帳」に、甲浦に船籍のある船二六艘が記され、四国の諸津のうちでは海部かいふ(現徳島県海部郡海部町)宇多津うたづ(現香川県綾歌郡宇多津町)塩飽しわく(現同県丸亀市ほか)に次いで多い。その内訳も二〇〇石以上四〇〇石までが七艘、一〇〇石以上二〇〇石までが一二艘、一〇〇石以下七艘で積荷はおもに材木である。

甲浦・河内・白浜付近一帯は、中世末期には浅間あさま庄とよばれていたらしい。天正一七年(一五八九)の長宗我部地検帳の表紙に「浅間庄甲浦」とあり、その内容が河内・白浜を含むことでもわかる。しかし地検帳以外に史料はなく、わずかに江戸時代の土佐国甲浦之図(県立図書館蔵)御殿ごてん山南麓、白浜東側付近に「アサマ」の小字が記されるのみである。なお元亀三年(一五七二)の熊野神社の棟札に地頭惟宗右衛門助の名がみえ、この頃野根のねの領主であった惟宗国長が甲浦の地も併せ支配していたらしい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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