日本歴史地名大系 「踞尾村」の解説 踞尾村つくのおむら 大阪府:堺市踞尾村[現在地名]堺市津久野(つくの)町一―三丁・上野芝(うえのしば)町三―八丁・上野芝向(うえのしばむこう)ヶ丘(おか)町一―六丁・下田(しもだ)町・神野(こうの)町一―二丁・宮下(みやした)町・鶴田(つるた)町など上石津(かみいしづ)村の南に位置する大鳥郡の村。村の北東部・南東部は台地、西部を蛇行しつつ石津川が北流する。「つくの」ともいい、築尾とも書く。村の北東部に大塚山(おおつかやま)古墳・文珠塚(もんじゆづか)古墳をはじめ多くの古墳がある。中世末期には豊臣秀吉の臣槙島重利在城の踞尾城があったという(泉州志補遺)。文禄三年(一五九四)の太閤検地では踞尾・下田・市(いち)・家原寺(えばらじ)の諸村を神野庄として検地を行い、一千七四五石余が高付された(同年「大鳥郡神野庄御検地帳」北村家文書)。豊臣秀吉はそれより前の天正一三年(一五八五)天満(てんま)本願寺(跡地は現北区)の寺領(のちに京都西本願寺領)として当村の二八〇石を与え(「豊臣秀吉朱印状」西本願寺蔵)、翌年、堺の天神常楽(てんじんじようらく)寺に二二〇石、大寺(開口神社・念仏寺)に八〇石、禅通(ぜんつう)寺に六〇石、北十萬(きたじゆうまん)に五〇石、旭蓮(ぎよくれん)社に四〇石、顕本(けんぽん)寺に二七石、極楽寺に二〇石(豊臣秀吉朱印状「堺市史」所収)、南宗(なんしゆう)寺に一一〇石、経王(きようおう)寺に二六石、金光(こんこう)寺に一九石、引接(いんじよう)寺に一〇石余、向泉(こうせん)寺に九〇石、海会(かいえ)寺に三〇石、光明(こうみよう)院に一八石、櫛笥(くしげ)寺に一石余を寄進した(文化一〇年堺手鑑)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by