神野庄(読み)こうののしよう

日本歴史地名大系 「神野庄」の解説

神野庄
こうののしよう

貴志きし川の真国まくに川合流点より上流の谷間とその両岸山地を荘域とする。北に真国川流域を中心とした真国庄、西に早くに石清水いわしみず八幡宮領とされた野上のかみ庄があり、南は有田郡との境をなす長峰ながみね山脈が走る。現在の美里みさと福田ふくだ安井やすい野中のなか南畑みなみばた永谷ながたに神野市場こうのいちば樋下ひのした箕六みろく大角おおすみ三尾川みおのがわ上井あげい津川つがわ鎌滝かまたき赤木あかぎ明添みようぞえ高畑たかはた桂瀬かつらせが荘域と考えられる。なお立券当初の荘域は東隣の猿川さるかわ庄の地域も当庄内に含まれていたと考えられるが、中世初期には分離したらしい。

〔立荘と伝領〕

立券は康治元年(一一四二)で、同年一二月一三日の鳥羽院庁下文案(又続宝簡集)によると四至は「東限岫峯、南限志賀良横峯、西限佐々少河西峯、北限津河北峯」であった。同二年五月二五日付で作成された神野真国庄絵図(神護寺蔵)によれば、当庄および当庄の北に位置する真国庄は、北境を「荒河御庄」、東境を「八幡宮寺領鞆淵御薗」および「丹生社領毛无原」、西境を「八幡宮寺領野上御庄」、南境を「寂楽寺領阿弖川庄」と接していた。同絵図には当時の当庄内の村として「粟田村」「神野」「猿川村」の三村がみえ、また神社として、当時の領家藤原成通が勧請したと考えられる「熊野新宮」、および荘鎮守たる「十三所大明神」が記されている。

前記鳥羽院庁下文案によれば、もと当国住人長依友の先祖相伝の私領であったが、彼は当地を高野山に寄進し、仏聖料を弁済することにした。しかしその後国衙に収公され、「民烟逃散、田畝荒廃」という事態に陥った。そこで彼は改めて権中納言藤原成通に当地を寄進し、「非道之妨」をなくそうとした。成通は、地利米一〇石を高野山に毎年納めること、預所職を成通家の進退とすることの二点を条件に、当地を鳥羽院に寄進し、不輸不入の荘園とすべきことを奏請。鳥羽院庁はその申請を承認し、本家を鳥羽院、領家を藤原成通家とし、毎年地利米一〇石を高野山に弁進する神野庄が正式に立券された。預所職は領家の進退するところであったが、開発領主長依友が補任された可能性が強いといえよう。

その後、承久の乱に至るまで高野山文書等で判明する限りでは、本家職は八条女院・三条姫宮・八条女院・春華門院昇子・順徳天皇、領家職は藤原成通の養子泰通・東寺長者大僧正禎喜・泰通・神護寺・按察使藤原光親と次々と伝領されている。またこの間、少なくとも寿永元年(一一八二)までは高野山と従来の関係を保ち続けており、吉野金峯山寺とも承安五年(一一七五)から少なくとも寿永元年に至るまで何らかの関係を保持したらしい。


神野庄
かみののしよう

武儀むぎ郡に所在した摂関家領。庄域は現関市神野の津保つぼ川支流の藤谷ふじたに川流域の山間地帯に比定される。保延二年(一一三六)から久安五年(一一四九)に成立した「執政所抄」に「神野」とあり、蜂屋はちや庄などとともに京都法性ほつしよう寺修二月会のための餅各五〇枚を公事として納入している。その後、近衛家領となり、建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)に「京極殿領内美濃国神野庄」とみえ、普賢寺殿(近衛基通)から子の一乗院前大僧正実信に伝領され、以後一乗院門跡領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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