追原村
おつぱらむら
[現在地名]阿見町追原
北は島津村、東は清明川を挟んで石川村。乙原とも記す。中世は信太庄に属し、室町時代には上杉氏・小田氏が支配したが、永禄期(一五五八―七〇)には土岐氏の勢力圏に入り、同八年四月二四日の追原百姓中に宛てた土岐治英裁許状(小松沢家文書)に「上条与乙原之郷野之境之事」とある。天正一八年(一五九〇)蘆名氏領、慶長一一年(一六〇六)仙台藩領になり、同年三月三日の常州伊達氏領地知行目録(伊達家文書)に「六百弐拾七石七斗五合 追原」とある。寛文年間(一六六一―七三)村境の開拓を図って上条・塙両村と争ったが、評定所の裁決で退けられ(「上谷地・下谷地野論裁許状」大越家文書)、元禄一〇年(一六九七)には掛馬村との境野争論が龍ヶ崎陣屋の裁定で決着した(「追原・掛馬野論裁許状」掛馬芳雄氏蔵)。
追原村
おいばらむら
[現在地名]金城町追原
現金城町の北東端に位置。追原川が南流し、美又温泉で家古屋川に合流する。元暦元年(一一八四)一一月二五日の源範頼下文案(益田家文書)にみえる「大井原」は当地に比定され、藤原(益田)兼高の父兼栄の所領として安堵されている。建仁三年(一二〇三)一二月、益田兼季は将軍の代替りにあたって父兼恒より相伝した国方所領の「大井原」などに対する安堵下文の下賜を申請している(「益田兼季申文案」同文書)。近世初頭は幕府領(石見銀山領)であったが、元和三年(一六一七)津和野藩領となって幕末に至る。同年の竹村丹後守引渡証文(亀井家記稿本)に村名がみえ、高五五〇石余。寛永一四年(一六三七)の検地高六七一石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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