鹿島神社(読み)かしまじんじや

日本歴史地名大系 「鹿島神社」の解説

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]八千代町野爪

鬼怒きぬ川西岸に川を背にして鎮座。境内に杉の巨木が茂る。祭神は武甕槌命。経津主命・天児屋根命・比大神を配祀。旧村社。当社にかかわる馬場先ばばさき八幡前はちまんまえ八幡後はちまんうしろの小字が残る。

「続日本紀」神護景雲二年(七六八)八月一九日条に「下総国言、天平宝字二年、本道問民苦使正六位下藤原朝臣浄弁等具注応掘防毛野川之状申官、聴許已訖、其後已経七年、得常陸国移曰、今被官符、方欲掘川、尋其水道、当決神社、加以百姓宅所損不少、是以其状申官」とあり、天平宝字二年(七五八)に許可された鬼怒川の河道付替えが神社や民家にかかるというので、常陸国側から反対があり、七年も経過してしまったというが、この「神社」は当社と考えられる。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]小川町下馬場 宮

園部そのべ川の左岸にある。馬場の宮とも称され、祭神は武甕槌命。旧郷社。東茨城郡内三郷社の一つであった。

由緒(小塙家文書)は、往古鹿島の大明神が霞ヶ浦をさかのぼり、園部川河畔小塙こばなわ村の久殿くでの森に漂着、その後山野やまの羽木上はきあげ川戸かわど成山なりやまを経て、大同二年(八〇七)現在地に移り香取神子之かとりみこの社と称し、承安四年(一一七四)たちばな郷が鹿島神領となって鹿島神宮の分社となったという。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]白河市大

鹿島に鎮座。旧県社。祭神は武甕槌命。平安時代初期、常陸国鹿島神宮を勧請して創建されたと伝える。「延喜式」神名帳に載る白河郡七座のうち白河神社に比定する説がある。永徳二年(一三八二)一二月六日の銘を有する鹿島大明神鉄製鍵(社蔵、県指定重要文化財)には「奥州白川郡大村郷鹿島大明神御宝前鍵 神主藤原忠泰」とみえる。文明一三年(一四八一)三月同社神前で結城白川氏一族や重臣たちによる連歌の会が催された。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]寒河江市八鍬

八鍬やくわの南東部に鎮座し、祭神は武甕槌命、旧村社。近世末までは慈恩じおん寺末社四社の一で、別当は慈恩寺最上さいじよう院支配鹿島院、祝詞役は慈恩寺華蔵けぞう院支配長学ちようがく院が勤めた。安政四年(一八五七)鹿島院が最上院に提出した覚(最上院文書)によると、当社は長和元年(一〇一二)に建立、文暦元年(一二三四)に再建されたという。鹿島明神由緒(社蔵文書)はその後の経緯を、寒河江庄地頭大江親広の時代、家臣稲沢新助郎信政が当社を守護して再建、同じく家臣の菊池左京大夫則広が別当職に任じられたと記している。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]朝日町宮崎

宮崎みやざき集落の西部、じよう山の北、明神林みようじんばやし中腹に鎮座。別称宮崎明神・鹿島明神。旧村社。祭神は建甕槌神。常陸鹿島神宮の分霊が宮崎浦のおきの島に降臨したものといい、舟止ふなどめの明神とよばれたが、島が波の浸食を受けたため現在地に遷宮。三位さみ郷一九ヵ村の総社(延宝年中社寺来歴)。「延喜式」神名帳の新川郡「神度カムトノ神社」は一般に現上市かみいち森尻の神度もりじりのかんとの神社とされるが、「越中国式内等旧社記」は当社をあてている。海中出現との伝承がある古神像四体を伝える。多くの神像・仏像があり、一体の男神像には「享禄□□六月廿九日 □寅 敬白 宮崎村藤太夫 造□」と墨書銘がある。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]南部町埴田

埴田はねた集落の西部、海岸近くに鎮座。祭神は天照あまてらす大神・武甕槌たけみかづち大神・速須佐男はやすさのお命。旧村社。もとは埴田の沖にある鹿島にあり、鹿島明神社と称した。「続風土記」に「島の中にあり祀神は常陸国鹿島と同しく武甕槌命なりといへり」とあるが、創建年代は不詳。古来、鹿島そのものを神として崇敬したともいう。近世には当社と北道きたどう(現南部町)三鍋みなべ王子、須賀すが神社(現和歌山県南部川村)の三社を南部三社と称し、その経費は南部荘一五ヵ村の共同負担で、神職も兼帯したという。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]湖北町留目

留目とどめ集落の西端にある。旧郷社。武甕槌たけみかづち命など四神を祀る。当社の前身は現滋賀県びわ町錦織にしこおりにあったとされる興福寺の鎮守として創建されたといい、「延喜式」神名帳記載の浅井あざい郡「岡本ヲカモトノ神社」に比定される。元亀―天正(一五七〇―九二)頃の戦火によって焼失したが、豊臣秀吉の崇敬を受け再建したという(東浅井郡志)。天正一九年と推定される増田長盛等連署書状(鹿島神社文書)によれば、秀吉の長子鶴松の病気平癒を祈願して「立願米」のほかに五〇石を寄進されており、「為当座」として「初尾三百疋」が送られている。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]那珂町菅谷

菅谷すがやのほぼ中央の字北の内きたのうちに森に囲まれて鎮座する。祭神は武甕槌命。旧村社。縁起によると大同年中(八〇六―八一〇)両宮りようみやに創建。源頼義が前九年の役で出征のとき戦勝を祈願したといわれ、また源義家が後三年の役から凱旋の時、鹿島大明神に八幡大神を合祀して菅の屋を造ったという。元禄九年(一六九六)八幡宮を廃して鹿島明神と称し、別に字寄居よりいに八竜神を祀った。安政四年(一八五七)徳川斉昭は両社を廃し新たに現在地に遷宮、太刀一振と「鹿島大明神」と謹書して奉納した(神宮寺縁起書、那珂郡郷土史)。のち鹿島神社と改称。

旧暦七月一五日に大助おおすけ祭が行われ、踊屋台が出て賑う。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]日立市大久保町二丁目 関口

国道六号の西側にある。祭神は武甕槌命。旧郷社。

大窪大宮鹿島大神宮縁起によると創立は大宝元年(七〇一)と伝え、初めは河原子かわらご住吉台鹿島森すみよしだいかしまもりの地にあって塩浜しおはま明神と称したとも伝える。延暦二〇年(八〇一)坂上田村麻呂が蝦夷討伐に際して戦勝を祈願したといい、境内の大銀杏には坂上田村麻呂駒繋ぎの伝承が残る。のち常陸大掾平忠幹の九男で愛宕あたご山の地に館を構えた宗幹が氏神となし歴世崇敬し、下って太田おおた(現常陸太田市)城主佐竹義重が城北の鎮守となし、天正年間(一五七三―九二)より毎年九月に流鏑馬の神事を執行したといい、水戸藩主もまた代々崇敬したと伝える。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]品川区大井六丁目

光福こうふく寺の南西方、池上いけがみ通に面してある。祭神武甕槌神、旧村社。近世には鹿島大明神と称し、大井村の総鎮守。除地一反四畝(風土記稿)。安和二年(九六九)常陸国の鹿島神宮の分霊を勧請したと伝える。明治維新までは隣接する常林じようりん(現来迎院)が別当を勤めており、「風土記稿」が常林寺の項に載せる鰐口銘に「奉寄進 武州荏原郡大井郷鹿嶋宮 鰐口 寛正四年癸未一月日福松女敬白」とある。かつて大祭は九月一九日であったが現在は一〇月一九日。大正一四年(一九二五)までは奉納相撲が行われ、近郷から多くの人が集まった。祭礼とともに伝承されている「大井囃子」は、江戸時代末期に目黒囃子から派生した祭囃子。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]那珂町戸崎

戸崎とざきの北西隅の丘陵の高台に森に囲まれて鎮座する。祭神は武甕槌命。旧村社。元禄九年(一六九六)の鎮守帳(彰考館蔵)に「鹿島明神社、神体幣、前殿、証文本高五石、社領九石九斗五升八合」とある。棟札が数枚あり、元禄一六年のものが最古。

当地には大助祭があり、旧暦七月一〇日を当社のお田植祭とし、山車二台に大助人形と多数の提灯を飾り、笛太鼓ではやしながら東西両集落から繰出して神社に集まる。祭典ののち社前で人形を焼いて終了する。また各家では小麦稈で人形をつくり、竹を両刀とし、腹中には小麦の団子を入れ、兵糧という。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]藤崎町藤崎

集落北東の若前わかまえにある。祭神建御雷神。旧郷社。

貞享四年(一六八七)の検地帳に毘沙門堂地とある。神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)によれば、延暦一二年(七九三)坂上田村麻呂が田舎いなか郡浪淵村(現不明)の水中で恵美高丸の霊を退治し、守護神毘沙門像を安置し、小笠原円之太夫を社人に命じたという。「南津軽郡是」によれば、その後藤崎城主安倍氏が軍神として崇拝したと伝える。「津軽一統志」に「往古別当寺院号奥法山興福寺何時歟及退転 慶長年中氏子再興」とある。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]小川町下吉影 宮脇

ともえ川の右岸に位置する。社殿は北向きで境内は森林に覆われる。祭神は武甕槌命。旧村社。由緒によると、文治二年(一一八六)下吉影しもよしかげ村字石上いしがみより神体が上がり、同年本社を創立、鳥磐樟船命・神日本磐余彦命・天児屋根命の三神を祀り、石船いわふね明神と称した。天正二年(一五七四)佐竹義重が修造寄進、元亀年間(一五七〇―七三)江戸重通が社領六斗余を寄進、慶長元年(一五九六)佐竹義宣が修造寄進、さらに寛文一二年(一六七二)徳川光圀の命で村内にあった鹿島・香取・熊野の三社を合祀して鹿島神社と改称したという。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]木造町大畑 宮崎

大畑おおはたの北、宮崎みやざきにあり、祭神は武甕槌神、旧村社。神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)や寺社領分限帳(国立史料館蔵)によれば、毘沙門宮・八幡宮と称し、慶長一七年(一六一二)の創立。末社・合社に薬師堂がある。

西津軽郡史」によれば、初め村内を流れるあか川の南にあり、洪水などのため社殿は大破して中絶状態の時もあり、元禄八年(一六九五)の大凶作の際に本尊が盗まれたほどであった。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]栄町大面 船戸

大面おおも集落の南側、枡形ますがた山・大面城跡へと連なる丘陵の登り口にある。祭神武御雷命・建御名方命・誉田別命・菅原道真・久那斗神・倉稲魂命・天照大神。旧村社。社伝は、延暦年間(七八二―八〇六)坂上田村麻呂が武神武御雷命を鹿島より勧請したことにはじまるといい、宮司大乗家の伝承では真言系修験者の本覚(学)院が小栗山こぐりやま(現見附市)から迎えられ、別当として神社に仕えたという。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]常陸太田市大森町

風神ふうじん山の西南麓に位置し、段丘上の森の中に鎮座。祭神は武甕槌命。旧村社。この地は古くは世矢せや郷に属し、社記によると古くから世谷鹿島神として名高く、養和元年(一一八一)源頼朝が世谷郷の地を鹿島神宮(常陸一宮)へ寄進した(吾妻鏡)ので、鹿島神宮から当社に世谷権禰宜が来て仕え、また神宮へも祭の都度当社が奉仕するようになり、社殿を造営したといい、神体は広鉾という。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]常北町上古内

時沢ときざわの地の宇都宮街道の北側に鎮座し、社殿は南面して建つ。祭神は武甕槌命。旧村社。社伝によると古くからこの社地を鹿島土谷かしまつちだにと称し、祭神の降臨した場所で、大同年中(八〇六―八一〇)ここに祠を建てて国家鎮護を祈り鎮斎したという。また鹿島神宮造替の際の用材はこの地方から出したとも伝える。「新編常陸国誌」には「鹿島明神 (中略)神体ハ観音、社領ハ一石八升三合」とある。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]常陸太田市粟原町

久慈川北岸の堤防沿いの森の中に鎮座。祭神は武甕槌命。旧村社。社伝によると創立年は不詳であるが、初めは八幡神社と称し、元禄九年(一六九六)徳川光圀の命で現祭神を祀り鹿島神社と改称したという。「加藤寛斎随筆」の粟原あわばら村旧蹟平家ヶ森の項に、「粟原村ニ平家ケ森といふあり、世の人の口碑に残れり、此辺に鎮守鹿島の社あり、尤久慈川の縁にして、川筋出水の度毎に闕落て、社と水除の堤ハ数度迹江逃れて築たる事、今に至れり、元の社地ハ今川中になれりといふ、(中略)村方鎮守社ハ仁寿三年八幡宮を勧請せしを、元禄八年と申伝候、西山公(徳川光圀)様御代、鹿島明神に御改めの由、鎮守の社を平家ケ森と唱候ハ、いつのころより申候哉相分り不申候、織田信長天下の頃、平家の武士和田何某と申もの、右森の表ニ屋敷を構ひ住候所、文禄年中、佐竹侯のために滅亡せし由、古書ニ相見候由」と記される。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]大子町初原

初原はつばら川の左岸、杉の森に囲まれて鎮座。祭神は武甕槌命。旧村社。境内社尾竜おりゆう神社ほか八社がある。社伝は大同元年(八〇六)鹿嶋明神を勧請し、貞享元年(一六八四)社殿焼失、享保九年(一七二四)再建と伝える。また神社東方太夫たゆう沢に居住した太夫を武神として境内へ遷座し、尾竜神社としたという。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]北茨城市中郷町上桜井

したの平地に巨木に囲まれて鎮座。祭神は武甕槌命。旧村社。社伝によると天喜元年(一〇五三)に鹿島神を鎮斎したといい、当社の棟札に「天喜元年三月鎮座焉 弘長元年九月十五日建立常陸多珂郡桜井郷中原遷座 享禄四年辛卯十二月廿九日常陸多珂郡菅股城主大塚掃部輔藤原朝臣常成建立 元禄三年庚午九月五日水戸権中納言源朝臣光圀卿御再建 別当天妃山行蔵院清光法印」とある。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]大桑村大字須原 鹿島

現在の中央線須原すはら駅の構内のすぐ上にこんもりとした森がみえているが、この森が鹿島神社の境内である。祭神は武甕槌命。

宝暦七年(一七五七)の「吉蘇志略」に「鹿島大明神祠 曾て古証文如干通有るも火に燬く、古へは松本洗馬村より大豆五斛を献り神事に資す、今は復た納めず」とある由緒のある神社で、荻原おぎはらや野尻の鹿島かしま神社とともに、常陸の土豪で小木曾おぎそ庄の地頭となった真壁氏が勧請したものではないかと推定される。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]北浦村小幡

上の宮かみのみやにあり、祭神は武甕槌命・経津主命・誉田別命。旧村社。「茨城県神社誌」によれば、天長年間(八二四―八三四)鹿島大神を鎮斎、余戸あまりべ神社と称した。弘治二年(一五五六)に領主小幡大炊助正幹が社殿を修営、社号も改称し、神田五町歩を寄進、毎年五月五日に流鏑馬の式、九月一五日に修正祭を行ったという。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]築館町 黒瀬後畑

二迫にのはさま川右岸に鎮座。「黒瀬安永風土記」に村鎮守としてみえ、相殿として香取御児神社が祀られていた。鹿島神社は東夷征伐ののち常陸の鹿島神宮(現茨城県鹿島郡鹿島町)を勧請したといい、祭日は三月一〇日・九月三〇日。香取御児神社については式内社としており、「延喜式」神名帳の栗原郡七座のうちに「香取御児神カトリミコカミ社」とある。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]石下町若宮戸

若宮戸わかみやど集落北西、鬼怒きぬ川東岸に鎮座。杉や欅の古木に囲まれている。祭神武甕槌命。旧村社。長元元年(一〇二八)九月に黒須大学が鹿島神宮を分祀したのが創祀といわれる。元禄一六年(一七〇三)村民が申請して村の鎮守となる。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]西目屋村村市 稲葉

村市むらいち集落の南西約五四〇メートルの山中にある。祭神は武甕槌命。旧村社。明治三年(一八七〇)毘沙門天を改祭し、現社号となる。

大同二年(八〇七)坂上田村麻呂が勧請したと伝える。境内に杉の老木が多く、菅江真澄は「雪のもろ滝」で当社を多聞天の堂と記し、杉の半ばが朽ちて水がたまり、中に雑魚が生息しているという池の杉の話を紹介しているが、いまはその跡もない。拝殿の左右に格子戸をつけ、巨大な山の神の木像一対を祀る。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]総和町下大野

下大野しもおおの集落北東端、長井戸ながいど沼のヤト田を望む台地に鎮座。本殿献額に「鹿島神社 香取神社」と墨書。祭神武甕槌命、配祀経津主命。旧村社。延宝四年(一六七六)七月に大明神号を与えられ、宝永二年(一七〇五)一二月に正一位となった(宗源宣旨)

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]出島村牛渡

下郷しもごうにあり、祭神は武甕槌命。大同元年(八〇六)の創建と伝え、神体は木像三体。旧村社。五月五日の例祭に行われる御田植祭は「へいさんぼう」とよばれ、当社の別名にもなっている。祭には農夫姿のへいさんぼう爺、おかめの面をかぶり女装した男二人、早乙女二人、馬一頭、馬引き青年四人、神主などが登場し、社前で田植の各種の所作を行い、その間にへいさんぼう爺が五〇センチぐらいの木製男根を振回し、おかめと抱合う。

鹿島神社
かしまじんじや

[現在地名]八幡浜市日土町

西ノ上に鎮座。祭神は天児屋根命・武甕槌命・経津主命。旧郷社。

社伝は仁寿三年(八五三)村民が勧請し、その後地震があったが村に被害がなかったので、神徳として社殿を拡張し村の氏神としたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「鹿島神社」の解説

鹿島神社

(長野県木曽郡大桑村)
信州の神社百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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