日本歴史地名大系 「郡元村」の解説 郡元村こおりもとむら 宮崎県:都城市郡元村[現在地名]都城市郡元町・祝吉町(いわよしちよう)・都北町(とほくちよう)・神之山町(じんのやまちよう)・吉尾町(よしおちよう)・太郎坊町(たろぼうちよう)・広原町(ひろはらちよう)川東(かわひがし)村の東にある。大淀川支流沖水(おきみず)川が当村中央を西へ流れ、北西隅を高木(たかぎ)村を経て高城(たかじよう)(現高城町)に通じる薩摩街道が通る。応永一七年(一四一〇)の島津之郡本大その坪付(樺山文書)によれば郡本の大薗は二町余、町別六〇六枚で構成され、その小名には「あしハら」「ツヽミノ下」「野中田」「大路そへ」「小長田」などの小名がみえる。「大路」から幹線道路が通り、大淀川沿いには堤があり、その周囲の低湿地は葦原となっていたのであろう。また文正二年(一四六七)一一月晦日の所領書上日記(同文書)には郡本は二〇町とみえ、樺山氏の知行地であった。明応四年(一四九五)六月二一日、島津忠昌から樺山長久に対して島津庄郡本四〇町など計七五町が忠節の賞として宛行われた(「島津忠昌宛行状」同文書)。なお元徳二年(一三三〇)七月の島津庄雑掌承信重申状写(「備忘抄」所収文書)には、島津庄北(ほん)郷弁済使を継承した北郷丹後房亮雅(日置氏)が先祖開発の私領で相伝の地と主張している名田の一として、北郷図師職などとともに「弥吉」がみえる。 郡元村こおりもとむら 鹿児島県:鹿児島市旧鹿児島郡・日置郡地区郡元村[現在地名]鹿児島市郡元一―三丁目・郡元町・真砂町(まさごちよう)・真砂本町(まさごほんまち)・東郡元町(ひがしこおりもとちよう)・南郡元町(みなみこおりもとちよう)・三和町(さんわちよう)・新栄町(しんえいちよう)・南新町(みなみしんまち)・鴨池新町(かもいけしんまち)・紫原(むらさきばる)一丁目など中(なか)村の南、田上(たがみ)川(新川)下流域の平坦な微高地で、東は海、西は紫原丘陵、南は宇宿(うすき)村。薩摩国建久図田帳にみえる郡本(こおりもと)社は当地の一之宮神社にあてられる。文和三年(一三五四)五月二五日、九州探題一色範氏から鹿児島郡司矢上氏の庶子家の当村にある所領が鹿児島郡郡司職とともに島津貞久に与えられた(「一色範氏宛行状」島津家文書)。貞治二年(一三六三)四月一〇日、貞久は当村と中村の郡司職を娘禰々に譲り、その死後は子息氏久の知行とすると定めている(「島津道鑑譲状案」同文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by