朝日日本歴史人物事典 「島津忠昌」の解説
島津忠昌
生年:寛正4(1463)
室町時代の薩摩(鹿児島県)・大隅(同)・日向国(宮崎県)守護。立久の嫡子。初名は武久。陸奥守。文明6(1474)年に父立久から家督を継承したが,周辺の人吉相良・真幸院北原両氏の対立や庶家の薩州家島津国久と豊州家同季久,伊作・新納両氏の対立から内乱状態になり,守護としての地位は庶家の一揆契諾の上に成り立つ不安定なものであった。忠昌の業績は政治面よりも,桂庵玄樹を鹿児島に招聘し,また,家臣の伊地知重貞に「大学章句」を刊行させたように,朱子学の興隆を促した点に求められる。永正5(1508)年自殺したが,自殺の日は歌人西行の没日に心を寄せたものであった。<参考文献>『鹿児島県史』
(福島金治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報