郷倉千靱(読み)ゴウクラ センジン

20世紀日本人名事典 「郷倉千靱」の解説

郷倉 千靱
ゴウクラ センジン

大正・昭和期の日本画家 多摩美術大学名誉教授



生年
明治25(1892)年3月3日

没年
昭和50(1975)年10月25日

出生地
富山県射水郡小杉町

本名
郷倉 与作

学歴〔年〕
東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科〔大正4年〕卒

主な受賞名〔年〕
日本芸術院賞〔昭和34年〕「山霧

経歴
大正5年渡米し、ニューヨークボストンに滞在して研鑽。9年帝展に初入選。10年「地上の春」が再興・院展に初入選し、13年日本美術院同人となる。斬新な花鳥画で注目を浴び、以後、院展、帝展、日展に出品を重ねる。この間、昭和7年帝国美術学校教授を経て、10年多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)創立に際して日本画科主任教授となり、28年多摩美大教授、のち名誉教授。34年日本美術院監事となり、同年院展出品作「山霧」で第16回日本美術院賞を受賞。36年東本願寺大谷婦人会館壁画を依頼され、インドに取材旅行、38年「釈尊父王に会いたもう図」を完成。41年には四天王寺大講堂壁画「仏教東漸」を依頼され、44年壁画18面を完成する。47年日本芸術院会員。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「郷倉千靱」の解説

郷倉千靱 ごうくら-せんじん

1892-1975 大正-昭和時代の日本画家。
明治25年3月3日生まれ。大正9年帝展に初入選。13年日本美術院同人。のち帝国美術学校(現武蔵野(むさしの)美大),多摩美術学校(現多摩美大)の教授を歴任。昭和35年「山霧」で芸術院賞。47年芸術院会員。昭和50年10月25日死去。83歳。富山県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は与作。作品に「仏教東漸」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の郷倉千靱の言及

【明治・大正時代美術】より

…再興の宣言に,〈自由の天地〉で〈吾ら自己の芸術〉をめざすとうたい,大正デモクラシーやヒューマニズムの流れの中で,少数精鋭の団結により,個性尊重の精神をみなぎらせる精進を重ねた。再興日本美術院は小林古径,前田青邨,富田渓仙(1879‐1936),中村岳陵,小川芋銭(うせん)(1868‐1938),北野恒富(1880‐1947),速水御舟,川端竜子,近藤浩一路(1884‐1962),郷倉千靱(せんじん)(1892‐1975),堅山南風(かたやまなんぷう)(1884‐1980)ら,数多くの個性的な日本画家を生み出し,大正から昭和にかけての日本画界を支える中核となった。なお院展洋画部からは,二科展に出品した関根正二とともに,日本の青春ともいうべき大正期の象徴的存在である村山槐多が出ている。…

※「郷倉千靱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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