朝日日本歴史人物事典 「采女竹羅」の解説
采女竹羅
7世紀後半の官僚。筑羅や竹良とも書く。天武10(681)年7月小錦下で遣新羅大使。13年2月,三野王と共に新都城の地を探すため信濃(長野県)に派遣された。同年11月朝臣の姓を賜り,朱鳥1(686)年天武の殯に際しては内命婦のことを誄した。このとき直大肆。持統3(689)年12月25日に建立された「采女氏塋域碑」には「飛鳥浄原大朝庭大弁官直大弐采女竹良卿」と記され,形浦山地4000代(約8ha)を造墓地とするとある(『寧楽遺文』下)。この碑は河内国石川郡春日村帷子山(大阪府太子町)にあって,のちに同村妙見寺に移されたというが,現存しない。
(岩本次郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報