改訂新版 世界大百科事典 「飛鳥浄御原令」の意味・わかりやすい解説
飛鳥浄御原令 (あすかきよみはらりょう)
日本古代の法典。《日本書紀》に,681年(天武10)編纂に着手し,689年(持統3)に施行されたと伝えるものが,これにあたる。ただしこの《日本書紀》の記事については,古くはこれを,天智天皇が藤原鎌足らに編纂させたといわれる近江令を681年に修訂し,689年に施行したことを示すと解し,飛鳥浄御原令と近江令は同一のものとみる学説があったが,今日では両者を別の令とするのが通説。さらには〈近江令〉は存在しなかったとする学説も有力であり,この立場に立てば,飛鳥浄御原令は日本最初の体系的な法典であったことになる。全22巻。しかしすべて散逸して,今日に伝わらない。701年(大宝1)に制定・施行された大宝令はこの令に準拠して撰定されたといわれるから,大宝令および大宝令を修訂した養老令(718年ころ撰定,757年施行,大部分が現存)に収める30編の編目の多くは,飛鳥浄御原令にも存したと推定されるが,確認できるものとしては,〈戸令〉(国家が人民をどのように把握するかということや,身分制などについての条文を収めた編目)と〈考仕令〉(官吏の登用と勤務成績審査についての条文を収めた編目)の二つがあるにすぎない。条文の復元も試みられているが,いまだ全容が明らかにされているとはいいがたい。ただ,たしかなことは,672年の壬申の乱を経て,権力をおのれに集中することに成功した天武天皇の時代においてはじめてこの令の編纂が可能であったこと,また,隋・唐の律令に学んだ日本律令制の根幹をなす戸籍制,班田制,官僚制などが,この令の施行によって第一歩を踏み出したことである。701年の大宝令の発布によって,この令の施行は停止される。なお令とともに飛鳥浄御原律も制定・施行されたとする学説もあるが,このときには律は編纂されず,唐の律をそのまま借用して施行したとする学説が有力である。
→律令格式
執筆者:早川 庄八
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報