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柿本人麻呂 かきのもとのひとまろ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

柿本人麻呂
かきのもとのひとまろ

[生]?
[没]和銅1(708)頃
持統,文武朝の歌人。『万葉集』中の年代を明記した歌によると,持統3 (689) 年から文武4 (700) 年まで作歌活動をしている。下級官吏として天皇や諸皇子に仕え,その歌才のゆえに宮廷歌人的な役割も果していたようで,官命によって地方を旅行したり,地方官になったこともあると考えられている。『万葉集』に署名のみえるものとして長歌 18首,短歌 68首 (「或本歌」などを含む。なお異説もある) を残す。作品は,伝統をふまえたうえで独創的であり,時代の精神を体現しつつかつ個性的で,その自由ではなやかな修辞,力強く重厚な詠風などによって『万葉集』中第一の歌人と認められている。なお『万葉集』には『柿本朝臣人麻呂歌集』から採録した歌 373首があり,このなかにも人麻呂の作があると考えられているが,具体的な作品については説が分れている。

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デジタル大辞泉の解説

かきのもと‐の‐ひとまろ【柿本人麻呂】

万葉集の代表的歌人。三十六歌仙の一人。持統文武両天皇に仕えた。長歌の形式を完成するとともに、短歌も数多く残し、後世、歌聖としてあがめられた。生没年未詳。
(「柿本人麿」と書く)斎藤茂吉による評論。昭和9年(1934)から昭和15年(1940)にかけて刊行。総論篇、鴨山考補註篇、評釈篇上下、雑纂篇の5冊からなる。

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百科事典マイペディアの解説

柿本人麻呂【かきのもとのひとまろ】

万葉歌人。伝不詳。没年は708年ごろか。7世紀後半,持統天皇文武天皇の両天皇に仕え,官位は低かったが宮廷詩人として活躍したと考えられる。日並皇子,高市皇子の舎人(とねり)ともいう。
→関連項目石見国笠金村歌仙草壁皇子三十六歌仙宅磨栄賀長歌白鳳文化山部赤人依網池・依網屯倉

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

柿本人麻呂 かきのもとの-ひとまろ

?-? 飛鳥(あすか)時代の歌人。
六位以下の官人で宮廷歌人としてつかえ,晩年は地方官として石見(いわみ)(島根県)につかわされ,その地に没したらしい。おもな作品は持統(じとう)-文武(もんむ)天皇の時代(690-707)につくられ,「万葉集」には人麻呂作と詞書のある長歌18首,短歌67首。また「柿本人麻呂歌集」所収の長短あわせて約370首が「万葉集」におさめられている。皇室関係,自然,旅,死,恋愛などを歌材に枕詞,対句,比喩などの修辞を多用した雄渾な作風から,歌聖とあおがれた。
【格言など】あしひきの山鳥の尾の垂(しだ)り尾の長々し夜をひとりかも寝む(「小倉百人一首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

柿本人麻呂

生年:生没年不詳
大和時代の歌人。微官であったらしく,『万葉集』に歌を残すのみで,閲歴は定かでない。作品は,数え方によって異なるが,人麻呂の作と記される長歌18首,短歌60余首,「柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ」などとされる長歌2首,短歌330余首,旋頭歌35首がある。後者は,人麻呂が自他の作を筆録した歌集とする見方が一般的である。作歌年代の判明する歌は,持統3(689)年の「日並皇子尊(草壁皇子)の殯宮の時に作る歌」(巻2)から,文武4(700)年の「明日香皇女の木〓の殯宮の時に作る歌」(巻2)まで。その間に,持統5年の「泊瀬部皇女と忍坂部皇子とに献る歌」(巻2),同6年の「伊勢国に幸す時に京に留まれる柿本朝臣人麻呂の作る歌」(巻1),同10年の「高市皇子尊の城上の殯宮の時に作る歌」(巻2)が知られている。 なお,人麻呂歌集の方は,ほとんどが年代不詳だが,なかで七夕歌群(巻10)に,「庚辰の年に作る」との左注を付す1首があり,これを天武9(680)年とする通説に従えば,宮廷行事として定着化した七夕とかかわるだけに,このころすでに出仕していたものと認めてよいか。生年は,遡っておおむね斉明朝(655~61)とされるが,孝徳朝(645~54)の可能性もある。同じく人麻呂歌集には,大宝1(701)年の紀伊行幸時の歌(巻2)を収め,これが下限となる。奈良朝移行後の作品は確認しえず,「石見国に在りて死に臨む時に作る歌」が,巻2の藤原宮の標目の末尾に置かれるところから,和銅3(710)年の平城京遷都以前に没したと推測される。ただし,死に臨んでの作は,人麻呂を敬慕する者の代作で,石見国における死は伝承にすぎないと捉える説があり,その死は謎に包まれている。 とりわけ持統朝に,歌才を認められて宮廷と密接な関係にあったらしく,先掲の挽歌をはじめ,「吉野宮に幸す時に作る歌」「軽皇子の安騎野に宿ります時に作る歌」(巻1)など,公的な儀礼の場での歌が多い。壬申の乱(672)後の,天皇を中心とした強力な中央集権体制を反映して,天皇を神格化するといったように,当時の普遍的な皇室讃美の情を,歌人としての自覚のもとに格調高く歌いあげ,儀礼歌の様式を完成させている。また,私的な立場での「石見国より妻を別れて上り来る時の歌」「妻の死にし後に泣血哀慟して作る歌」(巻2)は,ともに浪漫性あふれる傑作で,およぼした影響も大きく,特に後者は,山上憶良や大伴旅人,家持に受け継がれ,亡妻挽歌と称される伝統を形作る源となった。口誦から記載文学への転換期にあって,構想力に恵まれて長歌に優れ,表現の面でも,枕詞,比喩,対句などの手法を,漢詩文の例をも摂取しつつ飛躍的に発展させ,『万葉集』の歌を一挙に頂点まで引きあげた観がある。続く奈良朝の歌人が,常に人麻呂を意識し,平安朝に下って歌聖と仰がれたことも,故なしとしない。<参考文献>阿蘇瑞枝『柿本人麻呂論考』,渡瀬昌忠『柿本人麻呂研究/歌集編上』,伊藤博『万葉集の歌人と作品』上,橋本達雄『謎の歌聖/柿本人麻呂』,稲岡耕二『王朝の歌人1/柿本人麻呂』,神野志隆光『柿本人麻呂研究』

(芳賀紀雄)

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世界大百科事典 第2版の解説

かきのもとのひとまろ【柿本人麻呂】

《万葉集》の歌人。生没年,経歴とも不詳ながら,その主な作品は689‐700年(持統3‐文武4)の間に作られており,皇子,皇女の死に際しての挽歌や天皇の行幸に供奉しての作が多いところから,歌をもって宮廷に仕えた宮廷詩人であったと考えられる。人麻呂作と明記された歌は《万葉集》中に長歌16首,短歌61首を数え,ほかに《柿本人麻呂歌集》の歌とされるものが長短含めて約370首におよぶ。質量ともに《万葉集》最大の歌人で,さらにその雄渾にして修辞を尽くした作風は日本詩歌史に独歩する存在とみなされる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

柿本人麻呂
かきのもとのひとまろ

生没年未詳。『万葉集』の代表的歌人。人麿とも書く。姓は朝臣(あそみ)。奈良朝(710~)以前に活動した。「人麻呂歌集」歌に「庚辰(こうしん)年」(天武(てんむ)天皇9年=680)作の歌(巻10・2033歌)があるので、天武朝(673~686)にすでに活動していたことが知られる。また、700年(文武天皇4)作の明日香皇女挽歌(あすかのひめみこばんか)(巻2・196~198歌)が、作歌年時のわかる作品として最後のものになる。天武・持統(じとう)朝を中心に、文武(もんむ)朝にかけて活動したのであるが、主要な作品は持統朝(686~697)に集中している。[神野志隆光]

官人としての人麻呂

人麻呂の活動は天武朝に始まるが、官人としての地位、足跡の詳細はわからない。石見相聞歌(いわみそうもんか)(巻2・131~139歌)によって石見国(島根県)に赴任したことがあったと認められたり、瀬戸内海旅の歌(巻3・249~256歌、303~304歌)などに官人生活の一端をうかがったりすることができる程度である。なお、石見国での臨死歌とする「鴨山(かもやま)の岩根しまける我をかも知らにと妹(いも)が待ちつつあるらむ」(巻2・223歌)があることから、晩年に石見に赴任し、石見で死んだとする説が有力だが、石見相聞歌は持統朝前半の作とみるべき特徴を、表現上(枕詞(まくらことば)・対句)も様式上(反歌)も備えている。臨死歌は、人麻呂の伝説化のなかで石見に結び付けられたものと思われ、石見での死は信じがたい。[神野志隆光]

人麻呂歌集と歌人人麻呂

歌人としての人麻呂の活動は、「人麻呂歌集」歌(『万葉集』中に364首)と、題詞に人麻呂作と明記するもの、いわゆる人麻呂作歌(延べ84首)とを通じてみることができる。「人麻呂歌集」は現存しないが、『万葉集』に取り込まれた形で知ることができ、天武朝から持統朝初めにかけて筆録されたとみられる。人麻呂作歌は、年時分明のものでは689年(持統天皇3)から700年(文武天皇4)にわたる。「人麻呂歌集」を人麻呂作歌に先行するものとして、両者をあわせて歌人としての人麻呂の全体像をみることができるのである。
 歌人人麻呂の展開をみるうえで「人麻呂歌集」は重要であるが、注目されるのは、「人麻呂歌集」のなかで、歌の表記に変化があり、それが歌の発展と不可分だということである。つまり、助詞・助動詞を少なくしか表記しないもの(略体歌)と、より多く表記するもの(非略体歌)と、2類あるが、略体歌から非略体歌へと書き継がれたと認められ、その表記の展開とともに歌が叙情詩としての成熟を遂げていったとみることができるのである。より古い略体歌にはとくに民謡的な歌が多い。「打つ田に稗(ひえ)はしあまたありといへど択(えら)えし我(われ)そ夜一人ぬる」(巻11・2476歌)など。非略体ではそうした歌から脱却して、人麻呂独自の歌詞と叙情の境地とを開く。「塩けたつ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹(いも)がかたみとそ来(こ)し」(巻9・1797歌)など。[神野志隆光]

人麻呂作歌

人麻呂作歌は、このような「人麻呂歌集」のなかで人麻呂の遂げた展開を受け、これをさらに推進する方向でなされていく。人麻呂作歌のなかでもっとも早い作は、689年作とみられる近江荒都(おうみこうと)歌(巻1・29~31歌)であるが、その2首の反歌「ささなみの志賀(しが)の唐崎(からさき)(さき)くあれど大宮人(おほみやひと)の舟待ちかねつ」「ささなみの志賀(しが)の大わだ淀(よど)むとも昔の人にまたもあはめやも」は、非略体歌の「塩けたつ」の歌のような歌い方のうえになされたことは明らかであろう。そうした歌い方を成熟させ、しっかりと自分のものにして方法化していくことで、前記のような歌は生み出されたのである。それは人麻呂の独自な歌調の定着でもあった。近江荒都歌の2首の反歌や、石見相聞歌中の反歌の1首「笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば」(巻2・133歌)の、沈痛重厚で、心の昂(たか)まり・激情を渦巻くように投げかける調べはたぐいがない。人麻呂調というべきものである。
 人麻呂作歌は、長歌を中心とする。84首のうち、長歌が18首、残りの短歌も36首まで反歌としてなされたものである。その多彩な内容は人麻呂を宮廷歌人ととらえる説もあるように、晴れの場での人麻呂の活動を想像させる。持統朝の宮廷が要求した、中国の詩に対抗できるような独自の文化としての歌ということにこたえてつくりだされていったのがこれらの長歌であったが、石見国から妻と別れて上京するときの歌という石見相聞歌に代表される相聞を主題とする長歌、草壁皇子(くさかべのおうじ)挽歌(巻2・167~169歌)、高市皇子(たけちのおうじ)挽歌(巻2・199~202歌)のような皇子たちの殯宮(ひんきゅう)に際してその死を悼み悲しむ荘重な響きをもつ挽歌など、新しい歌の境地がそこで開かれた。
 たとえば、「やすみしし我が大君の 聞こしをす天の下に 国はしもさはにあれども 山川の清き河内(かふち)と 御心を吉野の国の 花散らふ秋津の野辺に 宮柱太しきませば ももしきの大宮人は 舟並(な)めて朝川渡り 舟競ひ夕川渡る この川の絶ゆる事なく この山のいや高知らす みなそそく滝のみやこは 見れど飽かぬかも」(巻1・36歌)は、吉野行幸のときの作だが、枕詞・対句を駆使して重々しく華麗で、しかも緊張を失うことがない。比類ない歌いぶりであり、その歌調のみなぎりは、時代の精神を体現して生まれたといえよう。[神野志隆光]

人麻呂の達成

様式のうえでも複数反歌、複数長歌の構成などが初めて生み出され、表現のうえでも、多数の新しい枕詞が創出されるなど、人麻呂の果たしたものはきわめて大きい。人麻呂を通じて和歌史が転換するといっても過言ではない。大きく日本の文学史のうえでいえば、口誦(こうしょう)から記載への転換という点で人麻呂の位置をみるべきである。口から口へ受け継がれた文学から、書く文学という根本的に新しい質の文学への転換を歌において体現するのが人麻呂である。文学史にとってもっとも大きな、緊張に富んだ転換期であり、それを体現する歌人として人麻呂の文学的魅力は大きい。
 なお、人麻呂の後代へ与えた影響は圧倒的に大きく、『万葉集』の時代にすでに模範として仰がれていた。奈良朝の代表的歌人である笠金村(かさのかなむら)や山部赤人(やまべのあかひと)は明らかに人麻呂の影響のもとに作歌し、大伴家持(おおとものやかもち)は「山柿(さんし)の門」とよんで彼を賛仰した。のちに歌聖といわれ、さらには歌神として祀(まつ)られるに至った。[神野志隆光]
『稲岡耕二著『万葉表記論』(1976・塙書房) ▽渡瀬昌忠著『柿本人麻呂研究 歌集編 上』(1973・桜楓社) ▽橋本達雄著『万葉宮廷歌人の研究』(1975・笠間書院) ▽伊藤博著『万葉集の歌人と作品 上』(1975・塙書房) ▽渡瀬昌忠著『柿本人麻呂研究――島の宮の文学』(1976・桜楓社)』

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世界大百科事典内の柿本人麻呂の言及

【歌仙絵】より

…平安時代の歌合の盛行は歌論の発達を促し,古今の優れた歌人に対する尊崇の念を強めた。すでに11世紀には歌仙として最も尊崇されていた柿本人麻呂の像を描かせることが始まっていたようで,12,13世紀には人麻呂の画像をまつって歌道精進を祈念する人麻呂影供(えいぐ)の歌会が盛んに行われている。古聖人の像を描くことは,古くは奈良時代に始まる釈奠(せきてん)での孔子像の例があり,その他紫宸殿の賢聖障子や888年(仁和4)に巨勢金岡が描いた詩聖の像などが知られる。…

【短歌】より

…これは早世した孫建王(たけるのみこ)への挽歌(ばんか)である。万葉時代第2期に入ると柿本人麻呂という偉大な才能が登場して,短歌史は一挙に前進した。人麻呂は持統天皇の宮廷に仕えた人物と考えられているが,専門意識をもった最初の歌人として意欲的に作歌にとり組んだ。…

【長歌】より

…その発生と展開についてはまだ定説がないが,短歌が私的・日常的な場を発生の場としたと推測されるのに対して,長歌は公的・儀式的な場を発生の場としたであろうこと,さらには,長歌の形式的な完成の時期は,口誦から記載へと文学史が展開していった時期であろうと考えられている。具体的にいえば,《万葉集》第2期の歌人柿本人麻呂が長歌の完成に決定的な役割を果たしたと見られるのである。人麻呂には149句に及ぶ《万葉集》最長のそれを含めて20首ほどの長歌があるが,形式,構成,表現,すべての面において整備され,前代のものとは一線を画している。…

【枕詞】より

…本質を異にする両者が混雑を生じたものか,本質を同じくする両者が別々に発達したものか,両説があるが,古代人が枕詞と序詞とを明確に区別した形跡はない。柿本人麻呂は,古い枕詞を新しく解釈し直して用いたり,新しい枕詞を作ったり,用言を修飾する枕詞を多用したりして,枕詞の発達に大きく貢献した万葉歌人であるが,その作品〈玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ〉(《万葉集》巻三)の〈玉藻刈る〉〈夏草の〉という枕詞は,実景を描いたかと思わせるほど一首全体に対して大きな表現効果をもっている。なお,老・病・死をうたった山上憶良は,枕詞をほとんど使っていない。…

【万葉集】より

…〈熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな〉。(2)第2期を代表するのが宮廷詩人柿本人麻呂である。その作は長歌16首,短歌61首を数え,ほかに大半が彼の作とみられる《柿本人麻呂歌集》370首がある。…

※「柿本人麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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