もともと草莽の間に遺却されていた碑は、延宝四年(一六七六)陸奥磐城の頭陀僧円順が里間の風聞を水戸藩領
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
栃木県大田原市の旧湯津上村大字湯津上の笠石神社境内にある古碑で,700年(文武4)に没した那須直韋提(なすのあたいいで)の頌徳碑。長らく草むらの中に埋没していたが,1676年(延宝4)僧円順,庄屋大金重貞らによって発見され,83年(天和3)徳川光圀の知るところとなり世に現れた。形状から笠石碑とも呼ばれ,総高147.3cm,花コウ岩の角柱の一面を平滑にし,1行19字,8行152字が整然と刻まれ,文章も格調高い漢文体。内容は唐の年号で永昌1年(689・持統3)に那須国造で追大壱の位(685年制定の冠位四十八階の第33等)をもつ那須直韋提が評(こおり)の長官である評督(のちの郡大領にあたる)に任ぜられ,庚子年すなわち700年1月2日辰の刻に死去したので,後継者の意斯麻呂(おしまろ)らが碑を立て遺徳を追慕すると述べる。次に韋提が名族の後裔で国家の棟梁であり,一生に2度脚光を浴びたとし,粉骨砕身,その遺業を継ぐのが孝の道であると強調して故人を賛美し,最後に韋提の名声は翼なくして遠く伝わり,根なくして強固となったと結んでいる。碑文中の〈広氏〉は《新撰姓氏録》に豊城入彦命の後と見える広来津公を指すとする説が有力だが,普通名詞の名族の意であろう。また建碑者を新羅からの渡来人とし,彼らが本国で罪を許され,日本へ渡って韋提から厚い恩恵を受け,一生に2度蘇生したと解する説には賛成しがたい。建碑者意斯麻呂は韋提の後継者で渡来人ではあるまい。ただし撰文が渡来人の手になった可能性は大きい。
本銘文は国造制や評制などに関する貴重な史料で,那須国造を氏姓制下の旧国造と見るか,律令制下の新国造と見るか,また689年当時現役の国造と見るか,元国造と見るかによって解釈が異なってくる。例えば現職の旧国造と見る場合,那須地方では大化改新後40余年にしてようやく国造制から評督制に移行したということになる。銘文の読みや解釈自体についても,佐々宗淳,新井白石,狩谷棭斎,蒲生君平,井上通泰,斎藤忠ら多くの人たちによって究明が試みられてきたが,なお未解決の問題が多く残されている。
執筆者:磯貝 正義
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栃木県大田原(おおたわら)市湯津上(ゆづかみ)にあり、笠石(かさいし)神社の神体となっている石碑。1676年(延宝4)磐城(いわき)(福島県)の僧円順(えんじゅん)により発見され、馬頭(ばとう)(栃木県)の大金重貞(おおがねしげさだ)によって解読された。のち徳川光圀(みつくに)の知るところとなり、鞘堂(さやどう)の中に安置された。碑は、高さ120センチメートル、幅約48センチメートル、厚さ40センチメートルの角柱形の碑身の上に高さ約28センチメートルの笠石がのる。花崗(かこう)岩の前面を平滑にし、8行152字が六朝(りくちょう)風の整った書体で刻まれている。碑文は、永昌(えいしょう)元年(唐(とう)の年号で689年)に評督に任じられた国造那須直韋提(なすのあたいいで)が康(庚)子の年(700)に没し、意斯麻呂(おしまろ)らがその生前の徳をしのんで建碑したことが記されている。碑文の解読には異説があるが、中国の年号を知っている渡来人が造碑に関与したことは疑いなく、国造制や評制についての史料としても貴重なものである。現存する墓碑としては、群馬県高崎市にある山上碑(やまのうえひ)(681)に次ぎ2番目に古い石碑である。1952年(昭和27)国宝に指定。
[久保哲三]
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栃木県大田原市湯津上(ゆづかみ)に現存する古代石碑。上侍塚(かみさむらいづか)・下侍塚両古墳などが分布する古代那須地方の中心部に立地。上に笠石が乗る碑身の前面を平滑に磨き,152字の銘文を1行19字詰めで8行に陰刻している。銘文は「永昌元年」(則天武后の元号)すなわち持統朝の689年に那須国造の那須直韋提(なすのあたいいて)が評督(ひょうとく)に任じられ,「庚子年」すなわち700年(文武4)に没したことをしのんで意斯麻呂(おしまろ)らが建碑した旨を記す前半3行と,韋提を顕賞する漢文体の後半5行からなり,墓碑の性格をもつ。7世紀の評制の存在を示す金石文。中国六朝(りくちょう)風の書風と漢文をよくとどめ,日本三古碑の一つとされる。笠石神社の神体。国宝。
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…栃木県那須郡湯津上村大字湯津上の笠石神社境内にある古碑で,700年(文武4)に没した那須直韋提(なすのあたいいで)の頌徳碑。長らく草むらの中に埋没していたが,1676年(延宝4)僧円順,庄屋大金重貞らによって発見され,83年(天和3)徳川光圀の知るところとなり世に現れた。形状から笠石碑とも呼ばれ,総高147.3cm,花コウ岩の角柱の一面を平滑にし,1行19字,8行152字が整然と刻まれ,文章も格調高い漢文体。…
※「那須国造碑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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