改訂新版 世界大百科事典 「野原荘」の意味・わかりやすい解説
野原荘 (のはらのしょう)
肥後国玉名郡北西部(現,熊本県荒尾市,玉名郡長洲町)にあった宇佐弥勒寺領の荘園。《中右記》永久2年(1114)3月18日条にはじめて荘名が見えるが,立荘の経緯は不明。弥勒寺は石清水八幡宮寺を本家としたので,同寺検校が弥勒寺検校を兼ね寺領を管理した。鎌倉期の田数は〈七百丁,実ハ八百丁アリ〉と見えており,弥勒寺領最大の荘園であった。1247年(宝治1)6月の宝治合戦までの地頭は大江広元の子の毛利禅門西阿(季光)であったが,同合戦で滅び,その跡に武蔵国御家人小代(しようだい)重俊が補任された。当初代官による支配を行い,62年(弘長2)には地頭方の西郷と領家方の東郷に中分され,文永の役を機に重俊の子息らが西郷に入部し,荘内の村ごとに分割知行した。南北朝期には小代氏はおおむね北朝方につき,東郷を領した菊池氏に対抗したが,内乱末期には南朝方の衰退によって事実上野原荘全体を掌握し,1383年(弘和3・永徳3)に重政は足利義満から荘地頭職を安堵された。荘名はその後も残ったものの,当時すでに荘園領主支配は事実上崩壊していた。
執筆者:工藤 敬一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報