野手崎村(読み)のでさきむら

日本歴史地名大系 「野手崎村」の解説

野手崎村
のでさきむら

[現在地名]江刺市梁川やながわ

栗生沢くりゆうざわ村の北に位置し、北上高地西縁の山地丘陵に立地。大岳おおだけ地区に坂上田村麻呂大岳(武)丸などにかかわる伝説がある。「葛西真記録」に「及川勘解由 江刺郡野手崎城主」とみえ、戦国期及川氏が当地に拠っていた。天正一九年(一五九一)伊達政宗は、南部領境の当村に重臣中村九平治と大立目内匠を駐在させ、境界を守備させた。中村氏はふる館に、大立目氏は高屋敷たかやしき館に居住した。正保元年(一六四四)伊達家一家に列した小梁川宗影が当村堡山ほとやま要害(野手崎城)と一三七貫余を給され入封し、仙台藩直属の足軽二〇名を預けられ藩境警護体制を固めた。寛永二一年(一六四四)小梁川中務知行目録(伊藤文書)によれば、志田しだ大幡おおはた(現宮城県古川市)に四貫三〇二文、当村に一一五貫六九八文の給地がある。小梁川氏は新田開発に努め、寛文八年(一六六八)の新田覚(同文書)によれば田一町四反・畑一五町を開き藩に申請している。同氏は明治維新まで代々野手崎城にあり、維新後は伊達姓となり引続き当村に居住した。

正保郷帳には野手崎宿とみえ、田九七貫三六二文・畑五九貫三三七文、ほかに新田一〇貫八〇七文がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報