鎌田正清(読み)かまた まさきよ

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鎌田正清」の解説

鎌田正清 かまた-まさきよ

1123-1160 平安時代後期の武士
保安(ほうあん)4年生まれ。源義朝(よしとも)と乳兄弟で,義朝のもと保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱をたたかう。平治の乱で敗れた義朝にしたがい,尾張(おわり)の妻の父長田忠致(ただむね)をたよったが,平治2年1月3日義朝とともに謀殺された。38歳。通称は次(二)郎。名は政家とも。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の鎌田正清の言及

【鎌田氏】より

…藤原北家,守部姓首藤(守藤)氏(すどううじ)族。首藤資清の孫(一説では子)通清が鎌田権守を称したのに始まる。資清は本姓藤原と養父の姓守部とを合わせて守藤を称したと言われ,また源頼義に属して軍功を立てた賞として主馬首(うまのかみ)に任じられたため首藤を称したとも言われる。その子資通は頼義の子義家に従って後三年の役(1083‐87)に活躍した。通清はこの資通の子で源為義の郎従であった。いわば源氏譜代の家人であるが,通清が鎌田氏を称した由縁については不明。…

【源義朝】より

…恩賞により左馬頭(さまのかみ)となったが,信西(しんぜい)と組んだ清盛と不和になり,59年(平治1)12月清盛が熊野参詣に赴いた留守をついて藤原信頼とともに挙兵し,平治の乱を引き起こした。しかし急ぎ帰京した清盛の軍勢に敗れ,東国に逃れる途中,尾張国知多郡野間(現,愛知県知多郡美浜町野間)で家人長田忠致(おさだただむね)のために鎌田正清ともども殺された。平治1年12月29日とも永暦1年1月4日ともいわれる。…

※「鎌田正清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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