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崇徳天皇 すとくてんのう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

崇徳天皇
すとくてんのう

[生]元永2(1119).5.28. 京都
[没]長寛2(1164).8.26. 讃岐
第 75代の天皇 (在位 1123~41) 。名は顕仁 (あきひと) 。鳥羽天皇の第1皇子,母は中宮待賢門院藤原璋子。保安4 (23) 年即位したが,白河法皇,次いで鳥羽上皇が院政をとった。鳥羽上皇は永治1 (41) 年崇徳天皇を退位させて寵妃美福門院藤原得子の子体仁 (なりひと) 親王を近衛天皇とし,鳥羽法皇を本院,崇徳上皇を新院と称し,政令は本院から出した。

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デジタル大辞泉の解説

すとく‐てんのう〔‐テンワウ〕【崇徳天皇】

[1119~1164]第75代天皇。在位1123~1141。鳥羽天皇の第1皇子。名は顕仁(あきひと)。鳥羽法皇の死後、後白河天皇と争い、保元の乱に敗れて讚岐(さぬき)に流された。讚岐院。

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百科事典マイペディアの解説

崇徳天皇【すとくてんのう】

平安後期の天皇。鳥羽天皇の子。後白河天皇の兄。1123年即位したが,鳥羽上皇により近衛(このえ)天皇へ譲位をしいられ,1141年退位して上皇となり新院と称した。
→関連項目奥義抄皇嘉門院待賢門院平忠正美福門院福岡荘藤原忠通

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

崇徳天皇 すとくてんのう

1119-1164 平安時代後期,第75代天皇。在位1123-42*。
元永2年5月28日生まれ。鳥羽(とば)天皇の第1皇子。母は藤原璋子(待賢門院)。父の譲位により5歳で即位。実は白河法皇の皇子といわれ,院政をしく鳥羽法皇の意向で,3歳の異母弟近衛(このえ)天皇に譲位させられた。近衛天皇の死後は同母弟の後白河天皇と対立,敗れて讃岐(さぬき)に流された(保元(ほうげん)の乱)。長寛2年8月26日配所で死去。46歳。死後,怨霊(おんりょう)としておそれられた。墓所は白峯陵(しらみねのみささぎ)(香川県坂出市)。諱(いみな)は顕仁(あきひと)。別名に讃岐院。
【格言など】瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(「小倉百人一首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

崇徳天皇

没年:長寛2.8.26(1164.9.14)
生年:元永2.5.28(1119.7.7)
平安後期の天皇。諱は顕仁。鳥羽天皇の第1皇子。母は待賢門院璋子。保安4(1123)年父鳥羽天皇の譲りを受けて5歳で践祚。この即位は当時院政主であった曾祖父白河法皇の意によるものであるが,崇徳天皇は実は白河法皇が自分の猶子である璋子に生ませた子で,鳥羽上皇は崇徳天皇のことを「叔父子」と呼んでいた,との巷説もある(『古事談』)。初め法皇の執政下でその庇護のもとにあったが,大治4(1129)年法皇が崩じて鳥羽上皇の院政が始まると情勢は一変して厳しくなり,保延6(1140)年源雅定左大将着任をめぐって上皇と対立。翌永治1(1141)年鳥羽上皇の意思によりその寵妃美福門院所生の異母弟体仁親王(近衛天皇)に皇位を譲らざるを得なくなった。 譲位後は新院と呼ばれ本院鳥羽との対立が激化,そのようななかで近衛天皇が久寿2(1155)年に17歳で急逝すると,崇徳上皇はわが子重仁親王の即位に望みをかけた。が,結局同母弟の雅仁親王(後白河天皇)が即位し,その子守仁親王が立太子するにおよんでその願いも空しく破れた。次いで翌保元1(1156)年鳥羽法皇の死去を機に,当時摂関家で政界から疎外されていた左大臣藤原頼長と共に源為義,平忠正らを召集して挙兵するに至った(保元の乱)。しかし天皇側に敗れ,配所讃岐国にて失意のうちに崩じた。ために世に讃岐院と呼ばれ,また天皇の火葬所が山陵とされた(白峯陵)。崇徳上皇の配所での生活は様々な説話集にみえるが,『吉記』にも「五部大乗経」を血書した由が記されている。死後怨霊として世人に恐れられ,為政者はその慰撫に努めた。すなわち治承1(1177)年崇徳院の諡号を贈り,さらに保元の戦場跡には粟田宮を建立した。和歌に秀で,『詞花和歌集』編纂を命じており,もとより風雅を愛する繊細な人物であったように思われる。<参考文献>橋本義彦『平安貴族社会の研究』

(木村真美子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

すとくてんのう【崇徳天皇】

1119‐64(元永2‐長寛2)
第75代に数えられる天皇。在位1123‐41年。鳥羽天皇第1皇子,母は中宮璋子(待賢門院藤原公実女,白河院養女),実は鳥羽の祖父白河院が璋子に生ませた子といわれる。諱(いみな)は顕仁。1123年(保安4)白河の意向で鳥羽の譲りをうけて即位したが,白河が没し鳥羽院政の時代に入ると両者の対立が生じた。41年(永治1)異母弟(美福門院得子所生)の近衛天皇に譲位。55年(久寿2)同天皇が17歳で没すると,璋子が生んだ後白河天皇が即位。

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大辞林 第三版の解説

すとくてんのう【崇徳天皇】

1119~1164) 第七五代天皇(在位1123~1141)。名は顕仁あきひと。鳥羽天皇第一皇子。鳥羽上皇の圧力で異腹の近衛天皇に譲位、新院と称した。のち保元の乱を起こし、讃岐さぬきに配流され、同地で没した。墓を白峰しらみね陵という。讃岐院。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

崇徳天皇
すとくてんのう
(1119―1164)

第75代とされる天皇(在位1123~41)。名は顕仁(あきひと)。鳥羽(とば)天皇第一皇子。母は待賢門院(たいけんもんいん)藤原璋子(しょうし)。元永(げんえい)2年5月28日誕生。実父は鳥羽の祖父白河院(しらかわいん)で、鳥羽は崇徳のことを「叔父子(おじご)」とよんでいたといわれる(『古事談』)。1123年(保安4)5歳で立太子、即日鳥羽より譲位。1141年(永治1)3歳の皇太弟体仁(なりひと)親王(近衛(このえ)天皇)に譲位。しかし院政は鳥羽がとり続け、1155年(久寿2)後白河(ごしらかわ)即位により崇徳第一皇子重仁(しげひと)親王即位の望みも断たれた。失意のなかで翌1156年(保元1)藤原頼長(よりなが)と組み保元(ほうげん)の乱を起こしたが敗れて讃岐(さぬき)(香川県)に流される。長寛(ちょうかん)2年8月26日配所で没す。そのため讃岐院ともよばれる。陵墓は香川県坂出(さかいで)市の白峰(しらみね)陵。[飯田悠紀子]
『角田文衛著『王朝の映像』(1970・東京堂出版)』

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世界大百科事典内の崇徳天皇の言及

【詞花和歌集】より

…平安末期の歌集。勅撰和歌集の第6番目。藤原顕輔(あきすけ)撰。10巻。崇徳院の院宣をうけ,1151年(仁平1)奏覧した。歌数400首余りで八代集中最少。保守・革新両派の調和的傾向を示すが,《無名抄》に〈軽々なる歌〉が多いと非難された一面もあり,《後葉和歌集》は,これを難じて成立した私撰集である。前代歌人の曾禰好忠や和泉式部の歌が多いのも特色。当代歌人では大江匡房,崇徳院,撰者顕輔らの歌が多い。【上条 彰次】…

【白峯神宮】より

…京都市上京区に鎮座。崇徳天皇,淳仁天皇をまつる。崇徳天皇は保元の乱のあと,讃岐国に流され,その地で没し,白峯陵(坂出市内)に葬られたが,1866年(慶応2)孝明天皇が京都に神霊を迎えまつろうとしてならず,68年(明治1)現地に白峯宮を創建してまつり,73年淡路島の淡路陵に葬られた淳仁天皇の神霊を迎え合祀した。…

【保元の乱】より

…白河院政開始(1086)後,朝廷には〈治天の君(ちてんのきみ)〉=院と天皇と二つの権力が競合併存することとなり,それにともなって勢力争いは複雑かつ熾烈化していった。白河院没(1129)後はその子鳥羽上皇が院政をとったが,鳥羽院は1141年(永治1)崇徳(すとく)天皇(鳥羽院の子。実際は白河院の子で,そのため鳥羽院は〈おじご〉と呼んでいたという)を謀って退位させ,鳥羽院と美福門院(びふくもんいん)との間に生まれた近衛天皇(3歳)を即位させた。…

【保元物語】より

保元の乱(1156)を素材とする和漢混交文の軍記物語。鎌倉時代前期までに成立か。作者不明。3巻または2巻。《保元記》ともいう。乱は崇徳上皇派と後白河天皇派との皇位継承をめぐる戦いであったが,作中で最も強烈な個性をもって描かれるのは源為朝である。彼は敗北した上皇側に属しながら,一矢で敵2人を射倒したり,鞍もろとも鎧武者を射通して串刺しにするなど,獅子奮迅の働きをする。身の丈7尺(210cm余),生来の弓の名手で左手が右手より4寸長かったとも語られ,合戦場面は彼を中心に展開する。…

【六勝寺】より


[成勝寺]
 円勝寺の西に位置し(現,京都市勧業館のあたり),方1町もしくは東西2町。崇徳天皇御願。1139年(保延5)落慶供養。…

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