(木村真美子)
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第75代に数えられる天皇。在位1123-41年。鳥羽天皇第1皇子,母は中宮璋子(待賢門院,藤原公実女,白河院養女),実は鳥羽の祖父白河院が璋子に生ませた子といわれる。諱(いみな)は顕仁。1123年(保安4)白河の意向で鳥羽の譲りをうけて即位したが,白河が没し鳥羽院政の時代に入ると両者の対立が生じた。41年(永治1)異母弟(美福門院得子所生)の近衛天皇に譲位。55年(久寿2)同天皇が17歳で没すると,璋子が生んだ後白河天皇が即位。当時兄の関白藤原忠通と対立し主流から疎外された左大臣頼長は不遇な崇徳上皇と結び,鳥羽院が没すると挙兵(保元の乱)。敗れた崇徳上皇は讃岐に配流,64年怨みを抱いて没した。陵は白峯陵(香川県坂出市)。
執筆者:黒板 伸夫
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第75代とされる天皇(在位1123~41)。名は顕仁(あきひと)。鳥羽(とば)天皇第一皇子。母は待賢門院(たいけんもんいん)藤原璋子(しょうし)。元永(げんえい)2年5月28日誕生。実父は鳥羽の祖父白河院(しらかわいん)で、鳥羽は崇徳のことを「叔父子(おじご)」とよんでいたといわれる(『古事談』)。1123年(保安4)5歳で立太子、即日鳥羽より譲位。1141年(永治1)3歳の皇太弟体仁(なりひと)親王(近衛(このえ)天皇)に譲位。しかし院政は鳥羽がとり続け、1155年(久寿2)後白河(ごしらかわ)即位により崇徳第一皇子重仁(しげひと)親王即位の望みも断たれた。失意のなかで翌1156年(保元1)藤原頼長(よりなが)と組み保元(ほうげん)の乱を起こしたが敗れて讃岐(さぬき)(香川県)に流される。長寛(ちょうかん)2年8月26日配所で没す。そのため讃岐院ともよばれる。陵墓は香川県坂出(さかいで)市の白峰(しらみね)陵。
[飯田悠紀子]
『角田文衛著『王朝の映像』(1970・東京堂出版)』
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1119.5.28~64.8.26
在位1123.1.28~41.12.7
讃岐院とも。鳥羽天皇の第1皇子。名は顕仁(あきひと)。母は藤原公実の女待賢門院璋子(しょうし)。後白河天皇の同母兄。1123年(保安4)5歳で立太子し,即日,父鳥羽の譲位により践祚したが,これは曾祖父白河法皇の意志によるものであった。41年(永治元)父により異母弟近衛天皇に譲位させられ,さらに近衛の死後も後白河・二条天皇父子が擁立されたため,みずからの皇子への皇位継承は望みを絶たれる。56年(保元元)父の死の直後に後白河方との合戦に及ぶが敗れ(保元の乱),讃岐国に配流された。配所で死去したため怨霊として恐れられた。実の父を白河天皇とする説が「古事談」にみえるが,真偽は不明。和歌に秀でる。
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…平安末期の歌集。勅撰和歌集の第6番目。藤原顕輔(あきすけ)撰。10巻。崇徳院の院宣をうけ,1151年(仁平1)奏覧した。歌数400首余りで八代集中最少。保守・革新両派の調和的傾向を示すが,《無名抄》に〈軽々なる歌〉が多いと非難された一面もあり,《後葉和歌集》は,これを難じて成立した私撰集である。前代歌人の曾禰好忠や和泉式部の歌が多いのも特色。当代歌人では大江匡房,崇徳院,撰者顕輔らの歌が多い。【上条 彰次】…
…京都市上京区に鎮座。崇徳天皇,淳仁天皇をまつる。崇徳天皇は保元の乱のあと,讃岐国に流され,その地で没し,白峯陵(坂出市内)に葬られたが,1866年(慶応2)孝明天皇が京都に神霊を迎えまつろうとしてならず,68年(明治1)現地に白峯宮を創建してまつり,73年淡路島の淡路陵に葬られた淳仁天皇の神霊を迎え合祀した。…
…白河院政開始(1086)後,朝廷には〈治天の君(ちてんのきみ)〉=院と天皇と二つの権力が競合併存することとなり,それにともなって勢力争いは複雑かつ熾烈化していった。白河院没(1129)後はその子鳥羽上皇が院政をとったが,鳥羽院は1141年(永治1)崇徳(すとく)天皇(鳥羽院の子。実際は白河院の子で,そのため鳥羽院は〈おじご〉と呼んでいたという)を謀って退位させ,鳥羽院と美福門院(びふくもんいん)との間に生まれた近衛天皇(3歳)を即位させた。…
…保元の乱(1156)を素材とする和漢混交文の軍記物語。鎌倉時代前期までに成立か。作者不明。3巻または2巻。《保元記》ともいう。乱は崇徳上皇派と後白河天皇派との皇位継承をめぐる戦いであったが,作中で最も強烈な個性をもって描かれるのは源為朝である。彼は敗北した上皇側に属しながら,一矢で敵2人を射倒したり,鞍もろとも鎧武者を射通して串刺しにするなど,獅子奮迅の働きをする。身の丈7尺(210cm余),生来の弓の名手で左手が右手より4寸長かったとも語られ,合戦場面は彼を中心に展開する。…
…
[成勝寺]
円勝寺の西に位置し(現,京都市勧業館のあたり),方1町もしくは東西2町。崇徳天皇御願。1139年(保延5)落慶供養。…
※「崇徳天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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