平安末期の武将。源為義の長男。母は淡路守藤原忠清の娘。父祖相伝の本拠相模国鎌倉で成長したらしい。天養年間(1144-45)目代(もくだい)と結んで同国大庭御厨(おおばのみくりや)の押妨を企て,さらに同じころ下総相馬(そうま)御厨をも掠領した。義朝には上総御曹司の異名があるところから,房総地域にも勢力を扶植していたと推測される。上京して下野守となり,1156年(保元1)保元の乱で平清盛と同様後白河天皇方として戦い,乱後父為義,兄弟以下崇徳上皇方の源氏一族を斬った。恩賞により左馬頭(さまのかみ)となったが,信西(しんぜい)と組んだ清盛と不和になり,59年(平治1)12月清盛が熊野参詣に赴いた留守をついて藤原信頼とともに挙兵し,平治の乱を引き起こした。しかし急ぎ帰京した清盛の軍勢に敗れ,東国に逃れる途中,尾張国知多郡野間(現,愛知県知多郡美浜町野間)で家人長田忠致(おさだただむね)のために鎌田正清ともども殺された。平治1年12月29日とも永暦1年1月4日ともいわれる。
《平治物語》の伝えるところによれば,長田荘司忠致は義朝郎等鎌田正清の舅(しゆうと)にあたるところから,鎌田の言に従って忠致を頼って立ち寄ったという。しかし湯殿でだまし討ちにあい,その際義朝が〈木太刀一つあらば〉と言ったと伝えられるところから,野間の大御堂(おおみどう)寺(野間の大坊)の義朝の墓には木太刀をささげる風習が残っている。また義朝,鎌田正清については幸若《鎌田》や浄瑠璃《鎌田兵衛名所盃》の題材ともなっている。
執筆者:飯田 悠紀子
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(野口実)
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平安末期の武将。清和(せいわ)源氏の嫡流為義(ためよし)の嫡男。母は淡路守(あわじのかみ)藤原忠清(ただきよ)の女(むすめ)。相模(さがみ)国(神奈川県)鎌倉で成長したらしく、天養(てんよう)(1144~45)ころ相模大庭御厨(おおばのみくりや)ついで下総(しもうさ)相馬(そうま)御厨の押妨(おうぼう)を企てている。同地域に本領を確立しようとしたものらしい。鎌倉は父祖伝来の地であり、また義朝には「上総御曹司(かずさおんぞうし)」の異名もあるので、相模や房総の地域はもともと清和源氏と深い因縁のある地であったと思われる。やがて下野守(しもつけのかみ)となり、保元(ほうげん)の乱(1156)では、父為義や他の弟がみな崇徳(すとく)上皇方にくみしたのに対し、ひとり後白河(ごしらかわ)天皇方として戦い、上皇方を破った。乱後、父・弟を処刑、恩賞として左馬頭(さまのかみ)となるが、少納言(しょうなごん)入道信西(しんぜい)(藤原通憲(みちのり))と組んだ平清盛(きよもり)の権勢に圧倒され、しだいに藤原信頼(のぶより)に接近、1159年(平治1)ついに挙兵して平治(へいじ)の乱を起こす。しかし清盛の急襲を受けて敗退し、東国に逃れる途中、尾張(おわり)国知多(ちた)郡野間(愛知県知多郡美浜町野間)で家人長田忠致(おさだただむね)のために殺害された。同年12月29日とも翌永暦(えいりゃく)元年1月4日ともいわれる。野間の大坊(だいぼう)(大御堂(おおみどう)寺)の義朝の墓には、義朝の最期の無念を推量して木太刀(こだち)を捧(ささ)げる風習が残っている。
[飯田悠紀子]
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1123~60.1.3
平安後期の武将。為義の長男。母は藤原忠清の女。通称左馬頭(さまのかみ)。鎌倉を本拠に勢力を拡大,所領相論をおこしながら在地武士を組織化。上洛して1153年(仁平3)従五位下,下野守となり,翌年家督を継ぐ。56年(保元元)保元の乱では,平清盛らとともに後白河天皇側の主力をなした。義朝の主張した夜襲により天皇側は勝利を収め,その功により従五位上・左馬頭に任じられ,昇殿を許された。崇徳上皇側に加わった父や兄弟の助命嘆願は許されず,斬首した。後白河天皇の近臣藤原通憲(信西)や清盛と対立し,59年(平治元)藤原信頼と組んで平治の乱をおこしたが失敗。尾張国知多郡野間(現,愛知県美浜町)で長田忠致(おさだただむね)に殺された。
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…保元の乱後斬られた源為義の子の乙若,亀若,鶴若,天王丸の母が青墓長者の女であったことが《保元物語》にみえる。また,《平治物語》によると源義朝は平治の乱に敗れ,青墓に逃れているが,青墓長者大炊の女延寿との間に夜叉御前をもうけていたという。このように青墓長者と源氏との関係は深く,鎌倉幕府成立後,源頼朝は1190年(建久1)の上洛の際,青墓に立ち寄り,青墓長者大炊および息女を召し出し,纏頭(てんとう)を与えている。…
…景政の子孫が本御厨の御厨司,下司職を世襲,孫景忠の時より大庭氏(おおばうじ)を称した。1144年(天養1)若き源義朝は,留守所目代の源頼清と結託,三浦,中村などの自分の郎従と在庁官人を率いて沼郷に乱入して,武力による横暴を働き,神人(じにん)を殺した。これに対し下司景宗は大神宮,太政官に訴えてこれを回避しようとしたが,その訴訟の最中にも侵略はくりかえされた。…
…清和天皇の皇子・皇孫である賜姓源氏とその子孫。そのうちで最も栄え,清和源氏の代表的存在と見られたのは,第6皇子貞純親王の皇子経基王の系統である。
[経基王系の発展]
経基王は武蔵介として平将門の乱の鎮定に努力し,961年(応和1)に源姓を与えられた。その子満仲は摂津守となり,また摂津国多田地方(現,兵庫県川西市)に開発領主として土着し,多田荘を経営して多田院を創立した。なおこの満仲と経基との関係には若干の疑問も残されているが,《尊卑分脈》の系図にしたがって父子関係を認めるのが現在の定説である。…
…院権臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼とは互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信頼の近衛大将の就任を阻止したことによってその抗争は深刻なものとなった。一方,武士の棟梁のなかでは,平清盛と源義朝が相互に競って中央政界への進出をはかったが,保元の乱で武勲第一の義朝が左馬頭にとどまり,清盛が播磨守・大宰大弐になったことは,義朝に大きな不満を抱かせ,その反目が鋭くなった。義朝ははじめ信西に接近しようとしたが,清盛が巧みに信西に近づいて権勢を高めてきたので,信頼と相結び,ここに信西・清盛と信頼・義朝の二つの政治勢力がはげしく対立する情勢が生じた。…
…末代における武士の力の必要を説く序文がある。後白河院の近臣藤原信頼が源義朝とともに挙兵,政敵藤原信西を滅ぼすが平清盛に鎮圧された過程を描くが,作品の重点は敗れた源氏一族の悲劇にしだいに移る。合戦場面では悪源太義平と平重盛との対決が躍動感あふれる筆致で描かれ,貴族の中にも,謀叛軍の前で信頼を侮蔑する藤原光頼のごとき豪胆な人物が描かれている。…
※「源義朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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