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源義朝 みなもとのよしとも

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

源義朝
みなもとのよしとも

[生]保安4(1123)
[没]永暦1(1160).1.4. 尾張
平安時代末期の武将。為義の長子。相模に住んで東国に勢力をもった。仁平3 (1153) 年下野守。保元1 (56) 年の保元の乱には平清盛とともに後白河天皇の陣営に加わって白河殿を陥れ,崇徳上皇方についた父をはじめ源氏の一族を斬った。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

源義朝

鎌倉幕府を開いた源頼朝、義経の父。源氏と平氏が勢力争いしていた平安時代末期、源氏の棟梁(とうりょう)だった。NHK大河ドラマでは、俳優の玉木宏さんが演じている。美浜町野間には、義朝が殺された湯殿跡や、義朝の首を洗った「血の池」、のちに頼朝がかたきを討った「はりつけの松」など、ゆかりの地がある。

(2012-02-02 朝日新聞 朝刊 名古屋 1地方)

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デジタル大辞泉の解説

みなもと‐の‐よしとも【源義朝】

[1123~1160]平安末期の武将。為義の長男。保元の乱後白河天皇方に味方して勝利をおさめ、敵方の父為義ら一族を滅ぼした。のち、藤原信頼と結んで平治の乱を起こしたが、敗れて尾張で殺された。

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百科事典マイペディアの解説

源義朝【みなもとのよしとも】

平安末期の武将。為義の子。保元(ほうげん)の乱には平清盛とともに後白河天皇方につき,勝利ののち父など一族を処刑した。乱後左馬頭(さまのかみ)となったが,清盛の勢威を憎み,藤原信頼と結んで平治(へいじ)の乱を起こし敗れて尾張(おわり)で殺された。
→関連項目大庭御厨信西常盤御前源範頼美浜[町]横山党

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

源義朝 みなもとの-よしとも

1123-1160 平安時代後期の武将。
保安(ほうあん)4年生まれ。源為義の長男。保元(ほうげん)の乱で後白河天皇方について勝利したが,信西(しんぜい)(藤原通憲(みちのり))の命で崇徳(すとく)上皇方の父と弟たちを処刑した。平治(へいじ)の乱では藤原信頼とともに信西,平清盛の排除をねらって敗退。東国にむかう途中,平治2年1月3日尾張(おわり)(愛知県)で長田忠致(おさだ-ただむね)に謀殺された。38歳。
【格言など】敵のよするを相待て日をのぶるならば,人馬どもつかれて合戦弱(よわか)るべし(「保元物語」保元の乱で白河殿を奇襲するときのことば)

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朝日日本歴史人物事典の解説

源義朝

没年:永暦1.1.3(1160.2.11)
生年:保安4(1123)
平安後期の武士。源為義の長男。母は藤原忠清の娘。坂東に育ち「上総曹司」と称された。成人ののち,相模国鎌倉を本拠として南関東の武士団の統合をはかった。なかでも天養1(1144)年の相模国大庭御厨押領事件や康治2(1143)年から久安1(1145)年にかけての下総国相馬御厨の現地支配権紛争への介入によって大庭,千葉氏を服属させたことは史料にも恵まれてよく知られている。その後,妻の実家である熱田大宮司家(藤原氏)が待賢門院(鳥羽天皇の中宮・藤原璋子)の関係者を輩出していたことから,鳥羽上皇の抜擢を受け,仁平3(1153)年には従五位下下野守に叙任され,翌年にはさらに右馬助を兼ねた。保元の乱では平清盛と共に後白河天皇方の軍事力の中核として東国の家人たちを率いて活躍。乱後,左馬頭に任じ,昇殿をゆるされたが,崇徳上皇方についた父為義や多くの弟たちを失った。こののち後白河院の近臣信西と藤原信頼が対立。武門としてライバルとなった清盛が信西と姻戚関係を結んだため,義朝は信頼と提携。さらに二条天皇の親政をはかろうとする藤原経宗らの協力を得て,平治1(1159)年12月,清盛の熊野詣の隙をねらってクーデタを決行した(平治の乱)。これは一時成功をおさめ,義朝は播磨守,嫡子頼朝は右兵衛権佐に任じたが,清盛が京都に帰還を果たすと情勢は一変。義朝は上皇・天皇を迎え入れた清盛との合戦に敗退し,再挙を期して東国への脱出を試みたが,途中,尾張国知多郡で長田庄司忠致によって,乳母子鎌田正清と共に誅殺された。<参考文献>安田元久「源義朝」(『人物日本の歴史』5巻),同『日本初期封建制の基礎研究』,上横手雅敬「院政期の源氏」(『御家人制の研究』),五味文彦『院政期社会の研究』

(野口実)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

みなもとのよしとも【源義朝】

1123‐60?(保安4‐永暦1?)
平安末期の武将。源為義の長男。母は淡路守藤原忠清の娘。父祖相伝の本拠相模国鎌倉で成長したらしい。天養年間(1144‐45)目代(もくだい)と結んで同国大庭御厨(おおばのみくりや)の押妨を企て,さらに同じころ下総相馬(そうま)御厨をも掠領した。義朝には上総御曹司の異名があるところから,房総地域にも勢力を扶植していたと推測される。上京して下野守となり,1156年(保元1)保元の乱で平清盛と同様後白河天皇方として戦い,乱後父為義,兄弟以下崇徳上皇方の源氏一族を斬った。

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大辞林 第三版の解説

みなもとのよしとも【源義朝】

1123~1160) 平安末期の武将。為義の長男、為朝・行家の兄。保元の乱で後白河天皇方に加わり、功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗れ、東国に逃れる途中、尾張で家人長田忠致おさだただむねに殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

源義朝
みなもとのよしとも
(1123―60?)

平安末期の武将。清和(せいわ)源氏の嫡流為義(ためよし)の嫡男。母は淡路守(あわじのかみ)藤原忠清(ただきよ)の女(むすめ)。相模(さがみ)国(神奈川県)鎌倉で成長したらしく、天養(てんよう)(1144~45)ころ相模大庭御厨(おおばのみくりや)ついで下総(しもうさ)相馬(そうま)御厨の押妨(おうぼう)を企てている。同地域に本領を確立しようとしたものらしい。鎌倉は父祖伝来の地であり、また義朝には「上総御曹司(かずさおんぞうし)」の異名もあるので、相模や房総の地域はもともと清和源氏と深い因縁のある地であったと思われる。やがて下野守(しもつけのかみ)となり、保元(ほうげん)の乱(1156)では、父為義や他の弟がみな崇徳(すとく)上皇方にくみしたのに対し、ひとり後白河(ごしらかわ)天皇方として戦い、上皇方を破った。乱後、父・弟を処刑、恩賞として左馬頭(さまのかみ)となるが、少納言(しょうなごん)入道信西(しんぜい)(藤原通憲(みちのり))と組んだ平清盛(きよもり)の権勢に圧倒され、しだいに藤原信頼(のぶより)に接近、1159年(平治1)ついに挙兵して平治(へいじ)の乱を起こす。しかし清盛の急襲を受けて敗退し、東国に逃れる途中、尾張(おわり)国知多(ちた)郡野間(愛知県知多郡美浜町野間)で家人長田忠致(おさだただむね)のために殺害された。同年12月29日とも翌永暦(えいりゃく)元年1月4日ともいわれる。野間の大坊(だいぼう)(大御堂(おおみどう)寺)の義朝の墓には、義朝の最期の無念を推量して木太刀(こだち)を捧(ささ)げる風習が残っている。[飯田悠紀子]

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世界大百科事典内の源義朝の言及

【青墓宿】より

…保元の乱後斬られた源為義の子の乙若,亀若,鶴若,天王丸の母が青墓長者の女であったことが《保元物語》にみえる。また,《平治物語》によると源義朝は平治の乱に敗れ,青墓に逃れているが,青墓長者大炊の女延寿との間に夜叉御前をもうけていたという。このように青墓長者と源氏との関係は深く,鎌倉幕府成立後,源頼朝は1190年(建久1)の上洛の際,青墓に立ち寄り,青墓長者大炊および息女を召し出し,纏頭(てんとう)を与えている。…

【大庭御厨】より

…景政の子孫が本御厨の御厨司,下司職を世襲,孫景忠の時より大庭氏(おおばうじ)を称した。1144年(天養1)若き源義朝は,留守所目代の源頼清と結託,三浦,中村などの自分の郎従と在庁官人を率いて沼郷に乱入して,武力による横暴を働き,神人(じにん)を殺した。これに対し下司景宗は大神宮,太政官に訴えてこれを回避しようとしたが,その訴訟の最中にも侵略はくりかえされた。…

【清和源氏】より

…清和天皇の皇子・皇孫である賜姓源氏とその子孫。そのうちで最も栄え,清和源氏の代表的存在と見られたのは,第6皇子貞純親王の皇子経基王の系統である。
[経基王系の発展]
 経基王は武蔵介として平将門の乱の鎮定に努力し,961年(応和1)に源姓を与えられた。その子満仲は摂津守となり,また摂津国多田地方(現,兵庫県川西市)に開発領主として土着し,多田荘を経営して多田院を創立した。なおこの満仲と経基との関係には若干の疑問も残されているが,《尊卑分脈》の系図にしたがって父子関係を認めるのが現在の定説である。…

【平治の乱】より

…院権臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼とは互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信頼の近衛大将の就任を阻止したことによってその抗争は深刻なものとなった。一方,武士の棟梁のなかでは,平清盛と源義朝が相互に競って中央政界への進出をはかったが,保元の乱で武勲第一の義朝が左馬頭にとどまり,清盛が播磨守・大宰大弐になったことは,義朝に大きな不満を抱かせ,その反目が鋭くなった。義朝ははじめ信西に接近しようとしたが,清盛が巧みに信西に近づいて権勢を高めてきたので,信頼と相結び,ここに信西・清盛と信頼・義朝の二つの政治勢力がはげしく対立する情勢が生じた。…

【平治物語】より

…末代における武士の力の必要を説く序文がある。後白河院の近臣藤原信頼が源義朝とともに挙兵,政敵藤原信西を滅ぼすが平清盛に鎮圧された過程を描くが,作品の重点は敗れた源氏一族の悲劇にしだいに移る。合戦場面では悪源太義平と平重盛との対決が躍動感あふれる筆致で描かれ,貴族の中にも,謀叛軍の前で信頼を侮蔑する藤原光頼のごとき豪胆な人物が描かれている。…

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