長後村(読み)ちようごむら

日本歴史地名大系 「長後村」の解説

長後村
ちようごむら

[現在地名]佐井村長後

下北半島西端部のほぼ中央、鍋掛なべかけ(五〇三・一メートル)の南山渓に発する長後川の河口に位置し、津軽海峡に面する。海岸に腰切こしきり岩の出崎があり、その南にはなが浜と称する砂浜が続く。北は佐井村、南は福浦ふくうら村と接する。山中深谷の地にあり、福浦牛滝うしたきとは舟で往来した。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に「無所務 長後村」とみえる。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高五・四石余で、すべて畑とあり、家数は六。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数八。田名部たなぶ通に属する。寛文六年(一六六六)頃から廻船の記録がみえ、同一二年には四月二〇日―五月一日に福浦とともに当村へ船八艘が入津している(雑書)


長後村
ちようごむら

[現在地名]藤沢市長後

引地ひきじ川の支流長後川が村中を流れる。東は七次ななつぎ村・千束せんぞく村、西は上土棚かみつちだな(現綾瀬市)、南は下土棚村に接する。下長後村ともいう。天正一八年(一五九〇)旗本朝岡領となる。元禄・天保の両郷帳には長後村二二〇石とある。寛永二年(一六二五)村内一〇石余が旗本遠藤領となる。元治元年(一八六四)一一月の戸塚宿助郷高扣(藤沢市史二)では定助郷八四石を勤めている。上長後と併せて一村とすることもあり、「風土記稿」では合せて家数九〇とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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