佐井村
さいむら
[現在地名]佐井村佐井
下北半島西端部の北、荒沢岳に発し北西流して津軽海峡に注ぐ古佐井川、その南を北流する大佐井川の河口に位置する。東に諸山を負い、北は奥戸村(現大間町)、東は大畑村(現大畑町)・川内村(現川内町)、南は長後村と接する。北西は津軽海峡を隔てて、箱館(現北海道函館市)と相対する。「日本書紀」斉明天皇五年三月の記事に、阿倍比羅夫が飽田・渟代・津軽の蝦夷とともに「胆振
蝦夷廿人」を集めて供応したとある。この「
」を佐井に比定する説があり、「陸奥郡郷考」では「
は南部の佐井なるか」としている。
正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に村名の記載はないが、「男矢越崎」「女矢越崎」「立石」がみえている。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に古佐井村・大佐井村とみえる。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には佐井村として高九五・六石余、うち畑九二・八石余とあり、戸口は一三八軒・一千二一五人。支村に矢越一二軒、磯谷二〇軒があった。享和三年(一八〇三)の仮名付帳には家数一七二とあり、そのうち古佐井の浜町二三、谷地町三五、大佐井の浜町三二、新町二一、風呂屋小路一五で、支村は原田一八、矢越九、磯屋一四、畑小屋五。田名部通に属する。
寛文七年(一六六七)難船救助など、天和二年切支丹禁制、貞享五年(一六八八)捨馬禁止の高札が立てられている(御領分高札集)。天和元年に酒屋が二軒あり(雑書)、享保二年(一七一七)には七軒となった(宇曾利百話)。佐井湊の隆盛とともに町場の形成がみられ、享和三年仮名付帳の五町は藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図では八町となっている。
佐井村
さいむら
面積:一三五・三五平方キロ(境界未定)
下北半島北部の西端に位置する。西に津軽海峡を望み、背後に急峻な山地を負う南北に長い地形である。東は大作山(七七六・三メートル)・縫道石山(六二六メートル)・アンド山(六四五・七メートル)などの連山で川内町、荒沢山(六七一・六メートル)などで大畑町と境する。北は流家戸山(三三六・四メートル)の稜線に沿い大間町、南は湯ノ沢山(五五七・七メートル)で脇野沢村と接する。北部の原田・佐井間は大間町へ連なる海岸段丘で平地が広がり、原田川・古佐井川・大佐井川が北流ないし北西流する。矢越・磯谷から長後・福浦・牛滝を経て脇野沢村へ至る海岸線には南北に高い懸崖が発達し、願掛岩・仏ヶ浦・焼山崎などの名勝がある。
佐井村
さいむら
[現在地名]中津村佐井
後山(四七四・五メートル)の東南、日高川沿いにある。南東は坂野川村、北は高津尾村。「続風土記」は「村中に小さき堰あるに依りて狭堰の名あり」と記す。慶長検地高目録によれば村高一四七石余、小物成六斗八升四合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑一四町余で高一五〇石余、家数四八で内訳は本役一〇、半役五、無役二四、庄屋・年寄各一など、人数一九一、牛一二、馬二、鉄砲五、池四、御蔵一、山家同心三。幕末には高二一一石余と大幅な増石を示している(続風土記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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