長森原
ながもりはら
[現在地名]六日町長森・長森新田
魚野川に宇田沢川が合流する扇状地の山際に広がる南北約一里・東西約半里の原野。かつては宇田沢川対岸の上原・下原をも含んだ地域の総称。永正七年(一五一〇)六月二〇日、関東管領上杉顕定と越後守護代長尾為景および高梨政盛との間で、この地で合戦が行われ、顕定は政盛に討取られた。下原の管領塚は顕定を葬った場所という。永正四年八月一日、為景は守護上杉房能の養子上杉定実を擁して房能と対立。翌二日房能は府中(現上越市)を逃出し(同八年七月日「長尾為景証状」関興庵文書)、関東への近道である松之山道を逃走。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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