デジタル大辞泉 「府中」の意味・読み・例文・類語
ふちゅう【府中】[東京都の市]
[補説]広島県にも府中市があり、同名の市はこの両市と北海道伊達市・福島県伊達市との2組だけ。
大分川下流左岸の現大分市
豊後守護大友氏が管国豊後国に発したと推測される仁治三年(一二四二)正月一五日の新御成敗状(東京大学文学部国文学国史研究室蔵)に二八条からなる府中関係の条項がある。一九条に府中に屋地を賜る輩が済物を懈怠すれば屋地を没収するとあるのをはじめ、二〇条の府中に道祖神社を祀ることの禁止、二一条の町押買の停止、二二条の府中指笠の雨天以外の停止、二三条の大路を狭むることの制止、二四条の晴大路に面した場所での産屋の禁止、二五条の府中に墓所を置くことの禁止があげられている。豊後守護大友頼泰は幕府内での対立から逃げるためもあって管内豊後国に下向するが、その時大隅国
南北朝期、府中は政治・軍事の中心地として南朝軍の攻撃の的となる。建武三年三月一一日大友貞順以下の南朝軍が府中に打入ろうとしたとき、大友軍の大半が太宰府出陣中であったため、志賀頼房は
文明一〇年(一四七八)八月二八日の高座宮神主友永置文(須須神社文書)によると、前年九月
字
本願寺三世覚如の死後間もない観応二年(一三五一)息子従覚が命じて覚如の生前の行状を絵巻物にした「慕帰絵詞」に、貞和四年(一三四八)四月一四日のこととして、覚如が
中世から史料にみえる地名で、現三芳村府中に比定される。茨城県
大宰府郭内の呼称。「宇佐大鏡」に筑前国内にある八幡宇佐宮領として、「府中宇佐町」と「御笠東郷府中余部村」がみえ、筑前国の府中は
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東京都中南部、多摩川(たまがわ)の北側にある市。1954年(昭和29)府中町と多磨(たま)、西府(にしふ)の2村が合併して市制施行。大化改新のとき、武蔵(むさし)国を定め、ここに国府が置かれ、政庁所在地の意味の府中が地名となった。市域の大部分は武蔵野台地のなかでは一段と低い立川面(たちかわめん)(立川段丘)で、甲州(こうしゅう)街道(国道20号)より南側は多摩川の沖積低地である。分倍河原(ぶばいがわら)は台地から低地へ下る所にあり、新田義貞(にったよしさだ)の古戦場で知られている。江戸時代は甲州街道の宿場町および市場町として栄え、甲州街道と鎌倉街道(現在位置は旧甲州街道と府中街道)との交差点にあった高札場(こうさつば)跡がいまも保存されている。
甲武鉄道建設の際、鉄道を忌避して一時さびれたが、1916年(大正5)京王(けいおう)線、1929年(昭和4)南武鉄道(現、JR南武線)が全通、1933年に東京競馬場が開場し、日本製鋼所(1987年閉鎖)、東芝電気などの工場が設置され、しだいに都市化が進展した。交通機関はほかに、JR武蔵野線が府中本町で南武線と連絡、西武鉄道多摩川線が多磨、競艇場前を経て是政(これまさ)に至る。中央自動車道国立(くにたち)府中、稲城(いなぎ)の両インターチェンジもある。野菜・花卉(かき)の施設園芸などの農業がみられ、電気、機械、食品などの工業が行われる。京王線府中駅南口は再開発され、大型店が立地している。
武蔵国総社としての大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)は4月30日から5月6日にかけて開催されるくらやみ祭と、源頼義(よりよし)・義家父子奉納と伝えられる南北約500メートルの馬場大門のケヤキ並木(国の天然記念物)で知られる。北東端の都営多磨霊園(多摩墓地)は1923年(大正12)開設、約128万平方メートルの広さで、隣接して南西に展望のよい浅間(せんげん)山(80メートル)がある。面積29.43平方キロメートル、人口26万2790(2020)。
[沢田 清]
『『府中市史』上下(1968、1974・府中市)』▽『遠藤吉次著『わが町の歴史 府中』(1985・文一総合出版)』▽『『府中市史/史料編』(1988・府中市)』
広島県南東部にある市。1954年(昭和29)芦品(あしな)郡府中町と広谷(ひろたに)、岩谷(いわたに)、国府(こくふ)、栗生(くりぶ)、下川辺(しもかわべ)の5村が合併して市制施行。1956年御調(みつぎ)郡諸田(もろた)村、芦品郡河佐(かわさ)村を編入、1975年協和(きょうわ)村を編入、2004年(平成16)上下町(じょうげちょう)を編入。JR福塩線、国道432号、486号が通じ、市域南部を芦田川が流れる。古代備後(びんご)国府が置かれた地と推定されている。江戸時代は福山藩領、広島藩領に分かれる。芦品郡の中心地であったため、県の出先機関などがあるが、福山市の衛星都市的性格が強く、桜が丘などの住宅団地や工業団地の造成が行われた。鉄鋼、機械、紡績、縫製工業などがあり、備後工業整備特別地域の拠点の一つとなった。一方、備後絣(かすり)、たんす、桐箱(きりばこ)、琴などの製造やみそ造りなどの伝統産業も盛んである。市内には七ッ池や芦田川上流の河佐峡、三郎の滝、矢野温泉、周氷河期地形で国指定天然記念物「久井(くい)・矢野の岩海(がんかい)」などの観光地がある。面積195.75平方キロメートル、人口3万7655(2020)。
[北川建次]
『『府中市史』全3冊(1986~1988・府中市)』
広島県中南部、安芸(あき)郡の町。1937年(昭和12)町制施行。JR山陽本線が通じる。呉娑々宇(ごさそう)山(682メートル)西麓(せいろく)に開けた町で、古代は安芸国の国府が置かれた。広島市が合併により市域を拡大したため、周囲を同市に囲まれている。マツダの本社工場をはじめ中小の工場の立地が多い。埃宮(えのみや)(多家(たけ)神社)は神武(じんむ)天皇が立ち寄った所と伝えられる。榎(えのき)川上流には水分(みくまり)峡がある。面積10.41平方キロメートル、人口5万1155(2020)。
[北川建次]
『『安芸府中町史』全4巻(1975~1980・府中町)』
古代律令(りつりょう)期に各国に設けられた国府に由来すると考えられてきた地名。ただし、平安時代以前に国府が府中と称された例はなく、史料上は建武(けんむ)年間(1334~38)以後のことと考えられており、室町時代には守護所(しゅごしょ)を府中とよぶことが多かったとされる。しかし、守護所には律令期の国府の地を踏襲したものが多く、やはり国府所在地を考えるうえでの有力資料となる。現在、市町村名としては、東京都府中市、広島県府中市、広島県安芸(あき)郡府中町があり、このほか香川県坂出(さかいで)市、大阪府和泉(いずみ)市、茨城県石岡市など、国府所在地に由来する府中の地名の例は全国各地に分布している。さらに、静岡市、石川県七尾(ななお)市、福井県小浜(おばま)市、新潟県上越(じょうえつ)市なども、別称あるいはその一地域の名称として府中とよばれていた場合があったが、これらのなかには明らかに国府の位置とは異なるものも含まれている。
[金田章裕]
徳島市西端の国府(こくふ)町地区の一地域。律令(りつりょう)制度の国郡制により、阿波(あわ)国は上国に属し、国司政庁は府中に置かれた。「府中の宮」とよばれる大御和神社(おおみわじんじゃ)は国府の鎮守として歴代の国司の崇敬が厚く、国司の官印や蔵の鍵(かぎ)を保管したといわれる。国道192号が通じ、JR徳島線府中駅がある。
[高木秀樹]
東京都中部の市。1954年市制。人口25万5506(2010)。市街地は多摩川北岸の沖積地と立川段丘上に発達する。大化改新後,武蔵国21郡を支配する国府が置かれ,政治・経済・文化の中心として栄えた。江戸時代には甲州道中の宿場町として発展し,明治に入り郡役所が置かれるなど,北多摩地方の中心地であったが,1889年新宿と立川を結ぶ甲武鉄道(現,JR中央本線)が市域の外を通ったため一時さびれた。しかし,1916年に京王電気軌道(現,京王電鉄京王線)が新宿との間に開通,その後立川と川崎を結ぶ南武鉄道(現,JR南武線)も通じて,交通条件は改善された。また23年に多摩霊園,33年中央競馬会の東京競馬場,35年府中刑務所が開設されるなど,東京の近郊都市化が進められた。第2次大戦中には陸軍燃料厰や電気,製鋼などの軍需工場が設けられて工業化の基盤が形成された。戦後これらはアメリカ軍施設や民需用に転換,さらに60年代以降,食品,電気など多くの工場が進出した。都心への通勤者が増大するとともに住宅地化も進み,60年代に年平均1万人の人口増加がみられた。東部を西武鉄道多摩川線が通り,中央自動車道に稲城と国立府中の2つのインターチェンジがある。市内には武蔵国総社として由緒ある大国魂(おおくにたま)神社,中世の分倍河原(ぶばいがわら)古戦場や馬場大門のケヤキ並木など史跡が多く,東京農工大学,東京外国語大学,多摩川競艇場などもある。
執筆者:井内 昇
地名は武蔵国の国府の所在地であったことに由来し,総社六所宮(現,大国魂神社),国司藤原秀郷の居館と伝える高安寺などもあって,古代以来武蔵の政治・軍事上の要地であった。中世には鎌倉街道が通じていた。近世には内藤新宿,八王子横山宿に次ぐ甲州道中の大きな宿駅で,本町,番場宿,新宿の3町に分かれ,1ヵ月の伝馬役を分担していた。徳川氏は六所宮を尊崇して隣接する八幡宿の地500石を朱印地として与え,また初期には馬市もにぎわった。1617年(元和3)以来,府中の上田8反歩で将軍召上り料のマクワウリが栽培され,肥料や人足が周辺の府中領農村に課せられた。武蔵野新田の開発に当たっては1740年(元文5)篤農の川崎平右衛門が登用されて新田世話役となり,農民の尊敬を集めた。近代に入ると自由党,改進党の集会が盛んに開かれ,《武蔵野叢誌》が出版されるなど自由民権運動の中心地となり,1920年には府中多磨小作人組合が結成されて三多摩農民運動の指導的役割を果たした。
執筆者:北原 進
広島県南東部にある市。2004年4月旧府中市が北に接する上下(じようげ)町を編入して成立した。人口4万2563(2010)。
府中市北部の旧町。旧甲奴(こうぬ)郡所属。人口6426(2000)。吉備高原の中央に位置し,日本海に注ぐ江の川支流の上下川と,瀬戸内海へ注ぐ芦田川支流の矢多田川の分水線をなす。中心集落の上下は上下川左岸にあり,山陽と山陰を結ぶ石州路の宿駅として発達し,近世は付近の天領を統轄する代官所が置かれた。農業の中心は米作で,コンニャク,タバコの栽培も行われる。南部に国民保養温泉の矢野温泉,天然記念物の久井・矢野の岩海があり,安福寺には南朝年号をもつ宝篋印塔(ほうきよういんとう)などがある。福山市と三次市を結ぶJR福塩線,国道432号線が通じる。
執筆者:清水 康厚
府中市南部の旧市。1954年市制。人口4万3689(1995)。市域は世羅台地の東縁から福山平野にまたがる。芦田川が北西から南東に貫流し,その谷口に中心市街地がある。古代に備後国府が置かれたところで,白鳳期の伝吉田寺跡(町廃寺),栗柄(くりがら)廃寺,芦田軍団の建物跡と推定される父石(ちいし)遺跡など,国府と関連する古跡がある。中世には八尾山(やつおさん)城に拠る杉原氏が支配。江戸時代には福山藩が綿作を奨励し,備後絣が名産となっている。府中市(ふちゆうのいち)(現,府中市府中町)は石州路の宿駅で,口留番所では木綿などの他領への持出しを取り締まった。楽群舎などいくつもの私塾が設けられ,藩内でも教育の盛んな地であった。備後絣のほか府中家具,府中みそなどの特産地として知られ,さらに工作機械,ダイカスト製品,印刷機械などの工業が集積し,全国的にもユニークな地場産業都市の一典型をなす。福山市とはJR福塩線で結ばれており,同市に日本鋼管の製鉄所が開設されて以来,その影響を受けて脱農化が進み,第2次産業従事者が多い。市街地北西にある甘南備(かんなび)神社は式内社で,祈雨に効験あることから地元民の信仰が厚い。
執筆者:藤原 健蔵
越前国(福井県)の城下町。北陸街道の宿駅でもあり伝馬25匹。古代国府の所在地で催馬楽(さいばら)に〈武生(たけふ)の国府〉と見え,中世以来府中といい,1869年(明治2)古謡にちなんで武生と改称。1575年(天正3)府中三人衆の一人前田利家が居城。1601年(慶長6)結城秀康が3万6000石で付家老本多富正を配して以来,本多氏の城下町として発展した。南端の亀屋町から北府(きたご)町へ北陸街道が北上し,街道に沿って町屋を置き,東方に侍屋敷が広がり,その中央に御茶屋と呼ばれた本多氏の居館があり,西方には寺を配した。中央の大黒町では4と8の日に市が立った。町奉行,町手代,町代で町を支配し,役所を掛屋役所といった。酒,さらし布,鳥の子のほか,打刃物(越前鎌)が代表的産業で,1797年(寛政9)鍛冶77軒,鞴(ふいご)株139具,1862年(文久2)には201具に増え,1859年(安政6)には年産80万7000丁,売上げ2万両に及んだ。町数,戸口は,慶長ころ500戸,1625年(寛永2)18町,884軒,19世紀初め48町,2849軒,7696人。
執筆者:隼田 嘉彦
対馬国下県(しもあがた)郡与良(よら)郷に属した地名(現,長崎県対馬市の旧厳原(いづはら)町)。地名は677年(天武6)対馬国府が置かれたことに由来し,国府,府内とも記される。律令制下では国衙,国分寺が置かれ,対馬の政治,経済の中心であったが,平安時代から室町時代にかけては権力者が必ずしも本拠を置かず衰えた。宗氏も1408-86年(応永15-文明18)は本拠を上県(かみあがた)郡三根(みね)郷(現,対馬市の旧峰町)佐賀(さか)に置き,15世紀後半の戸数は申叔舟の《海東諸国紀》によれば府中100戸,佐賀500戸である。宗氏が府中を本拠としてからは戦国大名の城下町として発展,文禄・慶長の役には清水山城が築かれた。近世には対馬藩の藩庁所在地で,1659年(万治2)の大火後,新規に町割りがされ,家臣団の城下町集住の強制に伴い武家屋敷も整備され,近世城下町の形態を整えた。近世対馬の政治,経済,文化の中心として,また朝鮮通信使など外交の舞台として機能し,その遺跡,遺物も多い。1869年(明治2)厳原と改称。
執筆者:荒野 泰典
広島県南西部,安芸郡の町。人口5万0442(2010)。古代に安芸国府が置かれた地で,町名はそれに由来する。市街地は広島市と連続しており,東部の呉娑々宇(ごさそう)山南西麓が住宅地として開発されたため広島市への通勤者が激増し,人口が増加している。マツダや麒麟麦酒の工場があり,自動車,食品の関連企業が多い。806年(大同1)弘法大師の開基と伝える道隆寺や式内社多家神社などがある。JR山陽本線,国道2号線が通じる。
執筆者:清水 康厚
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…今町は直江津ともいい,《義経記》《山荘太夫》,謡曲《婆相天(ばそうてん)》などに直江の津,直井の浦とあり,《婆相天》には問(とい)の左衛門これすけが人身売買をおこなったとある。市街は越後国府が発展して,府中,府内,越府と呼ばれた。京畿へ米や越後特産の青苧(あおそ)を移出する重要な港で,青苧や越後上布を積んだ苧船(おぶね)で直江津から敦賀,小浜へ送られた。…
…南北朝以後,今川氏の守護所が置かれ,戦国大名今川氏の覇府として政治・経済・交通の中心地となり,応仁の乱後,戦乱の京都を避けて三条実望,飛鳥井雅綱,三条西実隆らの公卿,連歌師宗長,宗祇らの文人の往来が相次ぎ,西の山口と並ぶ地方文化の中心地となった。《実隆公記》享禄3年(1530)3月3日の条によれば,〈駿河府中二千余〉が焼失したと伝える殷盛の町であった。商業の中心地は今宿,本町で,友野座が形成され,友野氏は駿府商人頭,松木氏は蔵役・酒役を免許されるなど活発な商業活動があった。…
…天橋立北方,成相(なりあい)山のふもとには西国三十三所28番札所の成相寺がある。国分には丹後国分寺跡(史),大垣には丹後一宮とされた籠(この)神社があり,府中と呼ばれるこの一帯は古代丹後国府の所在地と考えられている。天橋立の南の文珠(もんじゆ)には〈九世戸(くせど)の文殊〉として信仰された智恩寺がある。…
…現在の大分市中心部。古代には豊後国府の所在地で,戦国時代には大友氏の城下が設けられ,海外貿易港としても繁栄し,府中とも呼ばれた。府内藩は1594年(文禄3)早川長敏,97年(慶長2)福原直高,99年早川長敏,1601年竹中重利,34年(寛永11)日根野吉明,58年(万治1)から大給(おぎゆう)松平氏と領主が交替した。…
…語句の意は宮城内のことで,宮廷とか〈畏(かしこ)き辺(あた)り〉とかと同じ意味に使われる。しかし,歴史的には府中(国家の政治)に対する語として問題とされる。すなわち,近代的な立憲君主制の原則としては,宮中(君主の宮廷事務)と府中(国政)とは分離し,国政についての責任機関が確立していなければならない。…
※「府中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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