ふ‐ちゅう【府中】
[1] 〘名〙
※将門記(940頃か)「府中の道俗も酷く害せらるる危ぶみに当る」
③
みやこの内。国または地方の政治の行なわれる所。大きな都市の内。
※俳諧・曠野(1689)員外「かかる府中を飴ねぶり行〈
野水〉 雨やみて雲のちぎるる面白や〈
落梧〉」
[2]
[三] 広島県南西部の地名。古代は安芸国の国府所在地。自動車・ビール
工業が盛ん。
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デジタル大辞泉
「府中」の意味・読み・例文・類語
ふちゅう【府中】[広島県の町]
広島県安芸郡の地名。もと安芸国府の地。広島市に囲まれており、自動車工業が盛ん。
[補説]広島県には府中市もあるが別の自治体。隣接もしていない。
ふ‐ちゅう【府中】
1 律令制の国府。また、その所在地。
2 宮中に対して、政治を行う表向きの役所。
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府中
ふちゆう
大分川下流左岸の現大分市元町・上野丘東・上野丘西以北、荏隈郷に所在した豊後国府を中心とした地域。戦国時代には府内ともよばれた。文暦元年(一二三四)四月一〇日の賀来社大宮司法橋上人位定文写(柞原八幡宮文書)に「府中」とみえ、由原宮(賀来社)正宮師が社頭神事により賀来・府中に出府している。
豊後守護大友氏が管国豊後国に発したと推測される仁治三年(一二四二)正月一五日の新御成敗状(東京大学文学部国文学国史研究室蔵)に二八条からなる府中関係の条項がある。一九条に府中に屋地を賜る輩が済物を懈怠すれば屋地を没収するとあるのをはじめ、二〇条の府中に道祖神社を祀ることの禁止、二一条の町押買の停止、二二条の府中指笠の雨天以外の停止、二三条の大路を狭むることの制止、二四条の晴大路に面した場所での産屋の禁止、二五条の府中に墓所を置くことの禁止があげられている。豊後守護大友頼泰は幕府内での対立から逃げるためもあって管内豊後国に下向するが、その時大隅国正八幡宮(現鹿児島県隼人町)大神宝用途調進を管国を越えて指揮する特殊権限を与えられた(文永二年一二月二六日「関東御教書案」宮内庁書陵部八幡宮関係文書)。文永一〇年(一二七三)三月二三日、頼泰は大神宝官使に狼藉を働いた石垣庄(現別府市)地頭代に、直ちに上府し陳弁せよと命じている(同日および四月一一日「大友頼泰書下案」同文書)。この一連の史料中に上府・参府の語が散見できるが、これは豊後守護所の所在地府中をさすものである(同年五月一六日「高田庄相論狼藉検見使起請文案」同文書)。嘉元三年(一三〇五)大友貞親は延暦寺僧道勇を請じて府内石屋寺に迎え(雉城雑誌)、徳治元年(一三〇六)に臨済宗萬寿寺を府中に建立、直翁智侃を開山とした(応永六年一二月「東福第十世勅賜仏印禅師直翁和尚銘」続群書類従など)。同寺は建武四年(一三三七)には十刹に列せられる(空華集)。また、貞宗も徳治二年岩屋寺(石屋寺)を山上の現在地に移して円寿寺と名を改め、道勇を中興とした(「豊後旧記」ほか)。元弘年中(一三三一―三四)には金剛宝戒寺を現在地に移したという(豊後国志)。
南北朝期、府中は政治・軍事の中心地として南朝軍の攻撃の的となる。建武三年三月一一日大友貞順以下の南朝軍が府中に打入ろうとしたとき、大友軍の大半が太宰府出陣中であったため、志賀頼房は高国府に味方を募り府中を警固した(同四年三月日「志賀頼房軍忠状」志賀文書)。
府中
ふちゆう
符中とも記す。七尾南湾の南岸部に位置し、現本府中町・上府中町を含む市街地の中心部に比定される。地名は中世国衙の所在地であったことによる。一六世紀前半まで能登国守護畠山氏の守護所が置かれた。
文明一〇年(一四七八)八月二八日の高座宮神主友永置文(須須神社文書)によると、前年九月方上保(現珠洲市)の守護請代官五井兵庫頭が保内の同宮神田を押領したため、一〇月二八日に友永が符中に赴いている。友永は守護代遊佐統秀に押妨停止を訴え、翌一〇年一月神田を還付する旨の守護の命令が下されるまで守護所の法廷を舞台に訴訟が展開された。畠山義統は同年暮頃までには能登に下国し、府中の守護館に居住していた。同一一年七月義統はかねて雅友の関係にあった招月庵正広に能登への来遊を促す書状を送っており、翌八月正広は府中に下向し、同一三年頃まで滞在した。次いで同一四年一〇月正広は再度下向し、滞留は同一七年にまで及んでいた。
府中
ふちゆう
字国分を中心とする一帯で、古代の国府であったと考えられている。
本願寺三世覚如の死後間もない観応二年(一三五一)息子従覚が命じて覚如の生前の行状を絵巻物にした「慕帰絵詞」に、貞和四年(一三四八)四月一四日のこととして、覚如が雲原(現福知山市)を通って当地に来た旨を「かの国府に下着しける」と記している。これが固有名詞か否かは別として、当地を国府とよんだ初見である。府中という呼称は、「多聞院日記」永正四年(一五〇七)五月二八日条の、丹後一色氏と若狭武田氏の合戦のなかに「武田殿・沢蔵以下者、尚以丹後府中城陳取定了」と記す。そののち中世末の丹後国御檀家帳に「府中」また「府中地下」と出ている。
府中
ふちゆう
中世から史料にみえる地名で、現三芳村府中に比定される。茨城県常澄町六地蔵寺蔵聖教のうち瑜祇経数息観の寛正六年(一四六五)奥書に「於安房国府中宝珠院伝之末弟宥舜之」、同じく伝受口決抄の文明五年(一四七三)奥書に「房州府中於宝珠院権大僧都法印御本下給写之畢」などとみえる。宝珠院は府中にある金剛山神護寺と号する真言宗寺院で、その建立地には安房国府の国衙機構が置かれたと推定されているが、近年の発掘調査では関連の遺構は確認されていない。府中の地名は一般に中世の国府所在地を示すとされ、律令制下の国府も当地に所在したとはいえない。観応三年(一三五二)三月二日の足利尊氏袖判下文写(遠山文書)に安房国古国府中村とみえ、古国府が律令制下の安房国府の所在地をさすのか、中村が現三芳村中に比定しうるか、検討を要するものの、国府の移転があったことがうかがえる。
府中
ふちゆう
大宰府郭内の呼称。「宇佐大鏡」に筑前国内にある八幡宇佐宮領として、「府中宇佐町」と「御笠東郷府中余部村」がみえ、筑前国の府中は御笠東郷内に所在し、府中内に宇佐町と余部村が存在したことがわかる。応安六年(一三七三)九月二一日の今川了俊奉書(太宰府天満宮文書/南北朝遺文(九州編)五)に「府中退出之段」とあり、何らかの理由でこれ以前に府中から追放されていた天満宮安楽寺修理少別当大鳥居信哲が、無実を訴え出たことが認められて大宰府の屋敷を還補されている。文安六年(一四四九)九月一八日の大鳥居信尭・信顕連署注進状(同文書/大宰府・太宰府天満宮史料一三)では、大鳥居氏の所領などが書上げられたなかに「一、府中坊地同屋敷以下事」とあり、年月日未詳後欠の某起請文(同文書/大宰府・太宰府天満宮史料一五)では大鳥居氏とみられる坊の領として「居屋敷并府中四拾半ケ所」などと記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
府中【ふちゅう】
古代の越前国の国衙(こくが)所在地で,中世以降府中と称し,近世には福井藩の家老本多氏の城下町となり,北陸街道の宿駅でもあった。現在の福井県越前市武生(たけふ)に属する。越前国府は武生が属した丹生(にう)郡にあり,〈催馬楽(さいばら)〉に〈武生の国府〉とみえる。室町時代の越前国の守護所は武生に置かれ,府中とよばれるようになった。《経覚私要鈔(きょうがくしようしょう)》に府中の地名がみえ,朝倉氏時代には府中守護所や,朝倉氏の2人の家臣が務めた府中両奉行人が置かれた。竜泉寺をはじめ多数の寺院があり,商業活動も活発であった。1573年朝倉義景の滅亡後,織田信長に帰順した富田長繁が府中に居館したが,1575年信長は本願寺の領国化した越前に出兵,府中に攻め込んだ。信長の越前平定後,前田利家・不破光治・佐々成政の府中三人衆が置かれた。織豊期に私称された郡名である府中郡は,府中を中心に南仲条(みなみなかじょう)郡・丹生北(にうきた)郡・今南東(いまなんとう)郡にわたる地域の総称で,府中三人衆の支配地域を指すものとも考えられる。1601年結城秀康が福井藩主として入部,家老の本多富正(4万5000石を知行)が府中城に配され,以後同氏の城下町として発展した。中央をほぼ南北に北陸街道が通り,これに沿って主要町屋が続き,西側に寺院とその門前町,東側に侍屋敷が置かれた。町は府中本町など府中十八町と隣接する府中町外(まちがい)とに分かれ,反別は府中十八町21町6反余,除地(じょち)となった社寺地43ヵ所18町2反余,府中城地2町8反余を含めた侍屋敷地22町6段余。戸数は本多氏入封当初は500戸足らずといわれたが,1625年には18町884軒,18世紀中頃には34町2004軒を数えた。宿駅としては油在家(あぶらざいけ)町に問屋が置かれ,伝馬25匹,人足25人,宿駕30人分を常備した。代表的産業として打刃物業があり,1797年には鍛冶職72軒,鞴(たたら)株139具。生産された鎌は越前鎌として知られた。1869年武生に改称された。
→関連項目府中
府中【ふちゅう】
中世におこった名称で,国衙(こくが)を中心に都市化した国府の所在地の呼称。のちに城下町となり繁栄した駿河(するが)府中すなわち駿府(すんぷ)(静岡市),甲斐(かい)府中(甲府市)が特に有名で,他に武蔵(むさし)府中(東京都府中市),備後(びんご)府中(広島県府中市),安芸(あき)府中(広島県府中町),越前府中(福井県越前市武生)などに地名として残る。→国衙・国府
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ふちゅう【府中】
越前国(福井県)の城下町。北陸街道の宿駅でもあり伝馬25匹。古代国府の所在地で催馬楽(さいばら)に〈武生(たけふ)の国府〉と見え,中世以来府中といい,1869年(明治2)古謡にちなんで武生と改称。1575年(天正3)府中三人衆の一人前田利家が居城。1601年(慶長6)結城秀康が3万6000石で付家老本多富正を配して以来,本多氏の城下町として発展した。南端の亀屋町から北府(きたご)町へ北陸街道が北上し,街道に沿って町屋を置き,東方に侍屋敷が広がり,その中央に御茶屋と呼ばれた本多氏の居館があり,西方には寺を配した。
ふちゅう【府中】
対馬国下県(しもあがた)郡与良(よら)郷に属した地名(現,長崎県下県郡厳原(いづはら)町)。地名は677年(天武6)対馬国府が置かれたことに由来し,国府,府内とも記される。律令制下では国衙,国分寺が置かれ,対馬の政治,経済の中心であったが,平安時代から室町時代にかけては権力者が必ずしも本拠を置かず衰えた。宗氏も1408‐86年(応永15‐文明18)は本拠を上県(かみあがた)郡三根(みね)郷(現,峰町)佐賀(さか)に置き,15世紀後半の戸数は申叔舟の《海東諸国紀》によれば府中100戸,佐賀500戸である。
ふちゅう【府中】
政治を行う表向きの所を意味し,律令制下における国府の所在地をいう。歴史的には,君主の宮廷事務を行う宮中に対し,国政事務を行う所として問題とされる。宮中【編集部】
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府中
ふちゅう
律令時代の国府の所在地
中世以後も土豪・豪族が居住して地方の中心地となり,近世の城下町などに発展した所が多い。東京・千葉・岐阜・三重・京都・徳島などに地名が残っている。なかでも武田氏の甲府(甲斐国・山梨県),大友氏の府内(豊後国・大分県),今川氏の駿府(駿河国・静岡県)は有名。
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普及版 字通
「府中」の読み・字形・画数・意味
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世界大百科事典内の府中の言及
【宮中】より
…語句の意は宮城内のことで,宮廷とか〈畏(かしこ)き辺(あた)り〉とかと同じ意味に使われる。しかし,歴史的には府中(国家の政治)に対する語として問題とされる。すなわち,近代的な立憲君主制の原則としては,宮中(君主の宮廷事務)と府中(国政)とは分離し,国政についての責任機関が確立していなければならない。…
※「府中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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