朝日日本歴史人物事典 「長谷川秀一」の解説
長谷川秀一
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将。尾張国葉栗郡北方村(一宮市)の出身。幼名竹,通称を藤五郎。元亀1(1570)年5月,織田信長の黒印状に添状を出しており,早くから信長の側に仕えていた。『信長公記』には天正6(1578)年から「長谷川竹」の名で出てくる。翌7年,安土の宗論をつかさどったことは有名。信長死後は豊臣秀吉に仕え,天正13年の紀伊根来・雑賀攻めおよび四国攻めの軍功によって越前国敦賀郡で11万石が与えられ,東郷城主となり,同15年の九州攻めののち,従五位下・侍従に叙任された。文禄の役には5000人を率いて渡海し,晋州城の包囲戦に加わり,同地で没した。
(小和田哲男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報