日本大百科全書(ニッポニカ) 「シェークスピア」の意味・わかりやすい解説
シェークスピア
しぇーくすぴあ
William Shakespeare
(1564―1616)
イギリスの詩人、劇作家。世界演劇史を通じて最大の劇作家、イギリス文学史を飾る大詩人といわれており、18世紀以来シェークスピア学という独立した学問が発展し、イギリスにおいては、あらゆる批評原理のテスト・ケースとして用いられており、イギリス劇壇にあってはシェークスピア劇は俳優の登竜門となっている。また、全世界を通じて、つねに観客から歓迎を受けている事実も驚異の的となっている。
[小津次郎]
生い立ち
イギリス・ルネサンスの頂点をなすエリザベス1世治下のイングランドの中部地方、ウォーリックシャーのストラトフォード・アポン・エイボンで、シェークスピアは生まれた。父は皮革加工業を主として、農作物や毛織物の仲買業を営んでいた。母は近在の豪農の出身であった。父は1568年には町長に選出され、シェークスピアは裕福な市民の長男として幸福な幼年時代を送り、町のグラマー・スクール(文法学校)に学んだが、彼が13歳のときに父の没落が始まり、大学へ進むことは許されなかったと思われる。18歳にして8歳年長のアン・ハサウェーAnne Hathaway(1556―1623)と結婚し、6か月後の1583年5月に長女スザンナSusanna(1583―1649)が誕生、さらに1585年2月にはハムネットHamnet(1585―1596)とジューディスJudith(1585―1662)という男女の双生児が生まれた。シェークスピアの少年時代についてはまったく記録を欠いており、演劇との結び付きも不明であるが、町の有力者の子弟として観劇の機会には恵まれていたと思われる。ロンドンに出た事情や年代についても不詳であり、近郊の豪族ルーシー家の鹿(しか)をいたずら半分に盗んだのが思いがけない醜聞となったので郷里を去ったという伝説もあるが、もとより確実な証拠はない。なんらかの理由でロンドンに出たのち劇団に加入したのか、すでに俳優として多少の経歴をもってから劇団とともに上京したのかはわからないが、ロンドンにおける俳優としての生活は1580年代の末ごろに始まっていたらしく、1592年には新進の演劇人として評判が高かったことを示す資料が残っている。
[小津次郎]
習作時代
シェークスピアの劇作活動がいつから始まったのかは不明確であるが、多くの学者は1590年ごろと推定している。おそらく最初は先輩作家の戯曲に部分的改修を加える助手的作業であったと思われるが、やがて彼自身の作品とよびうる戯曲を発表するようになった。その意味で歴史劇『ヘンリー6世』三部作(1590~1592)を彼の処女作と考えることができよう。その続編ともいうべき同じく歴史劇『リチャード3世』(1593)は、彼の生きていたエリザベス朝イギリスに至大の影響を与えたヨーク、ランカスター両家のばら戦争(1455~1585年のイギリスの内乱)の最終段階を描いたものであるが、主人公リチャード3世の創造は注目に値する。また、ローマの喜劇作家プラウトゥスからの翻案ともいうべき『まちがいの喜劇』(1593)や笑劇(ファルス)『じゃじゃ馬馴(な)らし』(1594)、当時人気の絶頂にあった流血悲劇の線に沿ったローマ史劇『タイタス・アンドロニカス』(1593)などが初期の作品群を形成している。いずれも習作であり、先輩の模倣や稚拙な部分が残ってはいるが、大作家の萌芽(ほうが)はすでにこのころ現れている。
[小津次郎]
劇壇の再編成
1592年から足掛け3年にわたって、ロンドンに流行したペストのため劇場は閉鎖された。シェークスピアはその間に2編の叙事詩『ビーナスとアドニス』(1593)、『ルークリース凌辱(りょうじょく)』(1594)をサウサンプトン伯Henry Wriothesley, 3rd Earl of Southampton(1573―1624)に献呈してその知遇を得た。1594年に内大臣の庇護(ひご)を受けた劇団(ロード・チェンバレンズ・メンthe Lord Chamberlain's Men)が誕生し、彼は幹部座員として参加することとなった。劇場閉鎖の結果ともいうべきロンドン劇壇の大規模な再編成は、シェークスピアのような新進劇作家にとって有利な情勢をつくりだしていた。彼は終生この劇団のために戯曲を書くことになるが、最初の作品群は悲恋の運命悲劇『ロメオとジュリエット』、詩人肌で自己陶酔的な国王が数々の受難を経て悲劇の主人公に成長してゆく過程を描いた歴史劇『リチャード2世』、アテネ郊外の夜の森を舞台に幻想的な世界をつくりだしたロマンチックな喜劇『真夏の夜の夢』である。いずれも1595年ごろの作品で、叙情性が共通した特色となっているが、単に情緒的な作品ではなく、シェークスピア劇の大きな特色である人間観察の鋭さはすでに現れている。
[小津次郎]
フォルスタッフの創造
しかし人間への洞察が行き届いてくるのは次期の作品群である。1590年代の後半は主として歴史劇と喜劇を書いているが、前者の代表作は『ヘンリー4世』二部作(1598)であろう。リチャード2世から王位を奪うことによって成立したヘンリー4世治下のイギリスという陰謀と混乱の暗い時代を背景に、放蕩無頼(ほうとうぶらい)の生活を送る老騎士フォルスタッフは、ハムレットとともにシェークスピアの創造した性格のなかでもっとも興味あるものとされているが、ハル王子と手を組んでの乱行ぶりは、道徳的には非難に値するが、その絶大なる人間的魅力によって、18世紀以来ハムレットとともにシェークスピア性格論の中心となってきた。またこの時期の代表的喜劇の一つである『ベニスの商人』(1597)は、甘美な恋愛喜劇のなかに強欲なユダヤ人の金貸し業者シャイロックを登場させているが、作者は社会通念に従って彼に悪人としての運命をたどらせながら、しかも少数被圧迫民族の悲しみと憤りを強く訴えさせて、人間への温い目と公正な社会観察眼を感じさせる。
[小津次郎]
名声の確立
内大臣一座は順調な発展の道をたどってイギリス第一の劇団となり、シェークスピアの名声も確立した。1596年には長男を失うという不幸があったが、同年秋には父親のために紋章着用権を取得し、1597年にはストラトフォードの大邸宅ニュー・プレイスを購入するなど、経済的にも成功者であったことを示している。また内大臣一座の最大の弱みであった劇場問題も、多少の紆余曲折(うよきょくせつ)があったとはいえ、1599年にテムズ川南岸にグローブ劇場(グローブ座)を建設して、同劇団の常打ち劇場とすることができた。このころにシェークスピアの創作力もほとんど頂点に達したかの感がある。『お気に召すまま』(1599)は、アーデンの森を舞台に、宮廷を追われた公爵と家臣の田園牧歌的な生活を背景に、若い男女の恋愛をロマンチックに描いた喜劇で傑作の名に恥じないが、憂鬱(ゆううつ)屋のジェイクイーズを登場させて、この世界にも陰があることに言及させることを忘れてはいない。次の喜劇『十二夜』は1600年ごろの作品で、おそらくは宮廷での上演を目的として書かれたものであろう。シェークスピア最高の喜劇として評判が高い。全体としてロマンチックな香気に満ちているが、優雅な主筋と活気に富んだ脇筋(わきすじ)のみごとな調和が成功の一因をなしている。
[小津次郎]
四大悲劇の誕生
これと前後してシェークスピアはローマ史から取材した悲劇『ジュリアス・シーザー』(1599)を書いているが、これから数年を彼の「悲劇時代」とよぶ批評家もいる。『ハムレット』(1601)、『オセロ』(1604)、『リア王』(1605)、『マクベス』(1606)と並ぶいわゆる四大悲劇はこの時期に集中している。それぞれに素材も異なり、扱い方も一様ではないから、四大悲劇について総括的に語ることは不可能であるが、いずれも外見と内容、仮象と真実の食い違いに悲劇の楔(くさび)を打ち込み、真実を獲得するためには最大の代償を支払わねばならぬかにみえる人間の壮大な悲劇的世界を提出し、死との関連において人間的価値の探究を試み、世界演劇史上最高の悲劇をつくりだしている。しかしこの時期にシェークスピアが創作したのは悲劇のみではなく、『終りよければすべてよし』(1602)や『尺(しゃく)には尺を』(1604)などの喜劇もある。いずれも結末は喜劇的ではあるが、筋書きの強行による不自然な結果であり、全体として作品に暗い影がさしており、モラルについても混迷がみられるところから、「問題喜劇」という名称を与える批評家もいる。この時期の最後を飾る悲劇は『アントニーとクレオパトラ』(1607)であるが、ほぼ同じころに執筆された忘恩をテーマとした『アセンズ(アテネ)のタイモン』(1607)は、未完成ではないかと疑わせるほどに悲劇形式に対する困惑が認められる。
[小津次郎]
ロマンス劇の流行
1603年にエリザベス1世が死去し、スコットランドからジェームズ1世が迎えられると、内大臣一座は国王の庇護(ひご)を受けることとなり、国王一座(the King's Men)と改称したが、このころからイギリス演劇にも変化が生じ、観客の嗜好(しこう)も移ってきた。巨大な主人公を中心とする激しい感情の劇から、家庭悲劇、風刺喜劇、感傷的な悲喜劇、あるいはデカダンスの悲劇へと様相を転じてきた。この傾向に応ずるため国王一座は1608年、従来のグローブ座と建築様式を異にし、入場料も高く、比較的裕福な観客層を対象としたブラックフライヤーズ座を傘下に置いた。劇団のそうした経営方針とおそらく無関係ではなかったと思われるが、シェークスピアの作品も1608年ころから新しい傾向を帯びるようになる。それはロマンス劇とよばれる悲喜劇で、『冬の夜話』(1610)や、シェークスピア最後の単独作である『テンペスト(あらし)』(1611)はその代表作であるが、一家の離散に始まり再会と和解に終わる主題は、シェークスピアがかならずしも時流に従わず、彼独自の世界を展開していることを示している。
[小津次郎]
最高の韻文芸術
シェークスピアの全戯曲37編のほぼ半分は彼の生前に出版された。また、創作年代不明の『ソネット集』も1609年に刊行され、イギリス・ソネットの精華として高く評価されているが、自伝的要素を含む可能性もあり、興味の尽きない作品である。戯曲全集は彼の死後1623年に、かつての俳優仲間ジョン・ヘミングJohn Heminge(1556―1630)とヘンリー・コンデルHenry Condell(?―1627)の編集によって刊行されたが、一般に「ファースト・フォリオFirst Folio」と呼び習わされている。シェークスピアは晩年の数年間は郷里で家族とともに過ごしたと思われるが、満52歳をもって死去した。死没の日は4月23日であるが、誕生日も4月23日前後と推定されるので、この日がシェークスピアの記念日とされている。彼の芸術は演劇という媒体を通じて人間内面の世界をほとんど極限まで追求したものであるが、最高の詩的表現に満ちた韻文が主体であることも大きな特色となっている。
[小津次郎]
日本への影響
日本へは明治初期に紹介され、いくつかの翻案が行われたが、翻訳としては坪内逍遙(つぼうちしょうよう)による『ジュリアス・シーザー』の訳『自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)』(1884・明治17)が刊行されたのが最初である。逍遙は1906年(明治39)に文芸協会を設立し、シェークスピア上演に意欲を燃やしたが、協会の解散によってこの機運も消え、その後はときに好演もあったが、シェークスピア上演は概して低調であった。しかし第二次世界大戦後は福田恆存(ふくだつねあり)の訳ならびに演出による劇団「雲」の公演活動によってふたたび活発化し、小田島雄志(おだしまゆうし)(1930― )の新しい現代語訳が刊行され、出口典雄(でぐちのりお)(1940―2020)の主宰する劇団「シェイクスピアシアター」は全作品を上演するなど、いまやシェークスピアは日本の読者、観客にとって身近な存在となった。また学者や愛好家を中心として1929年(昭和4)に設立された「日本シェイクスピア協会」は、純然たる学術団体として1961年(昭和36)に再組織され、英文による研究論文年刊誌『シェークスピア・スタディーズ』刊行などの研究活動を行っている。
[小津次郎]
『坪内逍遙訳『新修シェイクスピア全集』全40巻(1933~1935・中央公論社)』▽『福田恆存訳『シェイクスピア全集』全15巻(1959~1967・新潮社)』▽『福原麟太郎・中野好夫監修『シェイクスピア全集』全8巻(1967~1974・筑摩書房)』▽『小田島雄志訳『シェイクスピア全集』全7巻(1973~75・白水社)』▽『斎藤勇著『シェイクスピア研究』(1949・研究社出版)』▽『小津次郎編『シェイクスピア・ハンドブック』(1969・南雲堂)』▽『倉橋健編『シェイクスピア辞典』(1972・東京堂出版)』▽『D. WilsonThe Essential Shakespeare (1932, Cambridge University Press)』