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イタリアの作曲家。ローマ近郊のパレストリーナに生まれたと推察されているが,その確証はなく,またそれがいつであったかも不詳であるが,68歳で没したという当時の証言から1525年ころと推定される。少年時代の37年にすでにローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会の聖歌隊に属し,44年ころから51年にはパレストリーナ大聖堂のオルガニストとして活躍した。51年9月に教皇ユリウス3世の招きを受けてローマに戻り,サン・ピエトロ大聖堂内のジュリア礼拝堂楽長に就任,54年には同教皇の保護のもとに最初の曲集《ミサ曲第1巻》を出版した。しかし同教皇の死に伴い教皇庁を辞し,55-60年にはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会の,また61-66年にはサンタ・マリア・マッジョーレ教会の楽長を務めた。66年以後イエズス会の教育機関であるセミナリオ・ロマーノで教鞭を執るかたわら,67年からは有力な芸術の保護者である枢機卿イッポリト・デステ2世にも仕えるようになったが,教皇ピウス5世の招きに応じて71年再びジュリア礼拝堂の楽長に復職し,86年教皇礼拝堂作曲家の称号を受け,以後終生教皇のもとで活躍を続けた。
トリエント公会議(1545-63)において教会音楽のあり方が批判された際,パレストリーナが《教皇マルチェルスのミサ曲》を作曲してポリフォニーの宗教的有意義性を証明したという伝説は,今日では否定されるにいたった。しかし彼が反宗教改革運動における代表的作曲家となったことには変りはない。順次進行を主体とした滑らかな旋律の流れ,豊かな和音の連続による完璧な和声,厳格な対位法による書法,安定感に満ちた楽曲構成,曲全体の均整美はルネサンス音楽様式の極致とも呼ぶべきもので,パレストリーナ様式として一般に知られている。約850曲に達する作品の大部分は宗教曲で,ミサ曲104曲をはじめ,モテット375曲,その他の典礼曲約175曲のほか,マドリガル約140曲も知られている。
執筆者:金沢 正剛
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イタリアの作曲家。本名はジョバンニ・ピエルルイジだが、生地とされる地名にちなみパレストリーナと呼び習わされている。ローマで音楽教育を受け、一時ローマ近郊のパレストリーナの町で活躍したが、1551年以後、教皇庁礼拝堂聖歌隊をはじめ、ローマの主要な教会やセミナリオなどで活躍し、ローマで生涯を閉じた。パレストリーナは、ミサ曲、モテトゥス、オッフェルトリウム、イムヌス、マニフィカートなど、多種類のラテン語宗教作品を数多く残し、16世紀後半における最大の教会音楽家の1人とされているが、同時に、マドリガーレやカンツォーナなどのイタリア語による世俗作品も残した。その作風は、15世紀末以来のフランドル楽派の作曲家たちが用いてきた通模倣様式を基本とし、それに和声的な要素を巧みに組み込んだもので、順次進行の多い滑らかな旋律とも相まって、全体として、透明で清澄な美しさをたたえた性格をもっている。代表的な作品に、『ミサ・アスンプタ・エスト・マリア』、モテトゥス『谷川慕いて』、同『スターバト・マーテル』『インプロペリア』などがあり、それらは17世紀以後、教会音楽の手本とされるに至った。
[今谷和徳]
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…古代ローマのラテン人の都市。現在のパレストリーナPalestrina。ローマから東南東約30kmのアペニノ山中の高く涼しい場所にあった。…
※「パレストリーナ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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