パレストリーナ

デジタル大辞泉 「パレストリーナ」の意味・読み・例文・類語

パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)

[1525ころ~1594]イタリアの作曲家。教会音楽にすぐれ、16世紀の対位法様式を完成作品ミサモテットなど多数

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精選版 日本国語大辞典 「パレストリーナ」の意味・読み・例文・類語

パレストリーナ

  1. ( Giovanni Pierluigi da Palestrina ジョバンニ=ピエルルイジ=ダ━ ) イタリアの作曲家。ミサ曲、モテットなど教会音楽にすぐれ、一六世紀の対位法様式を完成した一方、マドリガーレなどの世俗作品も多く残した。(一五二五‐九四

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百科事典マイペディア 「パレストリーナ」の意味・わかりやすい解説

パレストリーナ

イタリアの作曲家。ルネサンス後期を代表する作曲家の一人。本名ジョバンニ・ピエルルイジ。ローマ近郊のパレストリーナの生れとされ,そこからパレストリーナと呼びならわされているが,生地についてはローマ説もある。聖歌隊員,オルガン奏者を経て,1551年ローマのサン・ピエトロ大聖堂ジュリア礼拝堂楽長に就任。以後ローマに居をすえ,1554年には初の曲集《ミサ曲第1巻》を出版する。庇護(ひご)者の教皇ユリウス3世他界に伴い教皇庁を去り,1555年−1560年サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会楽長,1561年−1566年サンタマリア・マッジョーレ教会楽長を歴任。1571年再びサン・ピエトロ大聖堂の元職に戻り,のち教皇礼拝堂作曲家の称号を得,以後没するまで教皇のもとで活動した。作品は,有名な《教皇マルチェルスのミサ曲》など100曲以上のミサ曲,《スタバト・マーテル》を含む400曲近いモテット,世俗マドリガルなど。フランドル楽派の技法をイタリア的感覚に結びつけながら調和のとれた対位法様式を完成させ,カトリック最大の作曲家といわれる。→ア・カペラビクトリアラッスス
→関連項目キリスト教音楽グノースタバト・マーテルフィッツナーレクイエム

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改訂新版 世界大百科事典 「パレストリーナ」の意味・わかりやすい解説

パレストリーナ
Giovanni Pierluigi da Palestrina
生没年:1525ころ-94

イタリアの作曲家。ローマ近郊のパレストリーナに生まれたと推察されているが,その確証はなく,またそれがいつであったかも不詳であるが,68歳で没したという当時の証言から1525年ころと推定される。少年時代の37年にすでにローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会の聖歌隊に属し,44年ころから51年にはパレストリーナ大聖堂のオルガニストとして活躍した。51年9月に教皇ユリウス3世の招きを受けてローマに戻り,サン・ピエトロ大聖堂内のジュリア礼拝堂楽長に就任,54年には同教皇の保護のもとに最初の曲集《ミサ曲第1巻》を出版した。しかし同教皇の死に伴い教皇庁を辞し,55-60年にはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会の,また61-66年にはサンタ・マリア・マッジョーレ教会の楽長を務めた。66年以後イエズス会の教育機関であるセミナリオ・ロマーノで教鞭を執るかたわら,67年からは有力な芸術の保護者である枢機卿イッポリト・デステ2世にも仕えるようになったが,教皇ピウス5世の招きに応じて71年再びジュリア礼拝堂の楽長に復職し,86年教皇礼拝堂作曲家の称号を受け,以後終生教皇のもとで活躍を続けた。

 トリエント公会議(1545-63)において教会音楽のあり方が批判された際,パレストリーナが《教皇マルチェルスのミサ曲》を作曲してポリフォニーの宗教的有意義性を証明したという伝説は,今日では否定されるにいたった。しかし彼が反宗教改革運動における代表的作曲家となったことには変りはない。順次進行を主体とした滑らかな旋律の流れ,豊かな和音の連続による完璧な和声,厳格な対位法による書法,安定感に満ちた楽曲構成,曲全体の均整美はルネサンス音楽様式の極致とも呼ぶべきもので,パレストリーナ様式として一般に知られている。約850曲に達する作品の大部分は宗教曲で,ミサ曲104曲をはじめ,モテット375曲,その他の典礼曲約175曲のほか,マドリガル約140曲も知られている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パレストリーナ」の意味・わかりやすい解説

パレストリーナ
ぱれすとりーな
Giovanni Pierluigi da Palestrina
(1525ころ―1594)

イタリアの作曲家。本名はジョバンニ・ピエルルイジだが、生地とされる地名にちなみパレストリーナと呼び習わされている。ローマで音楽教育を受け、一時ローマ近郊のパレストリーナの町で活躍したが、1551年以後、教皇庁礼拝堂聖歌隊をはじめ、ローマの主要な教会やセミナリオなどで活躍し、ローマで生涯を閉じた。パレストリーナは、ミサ曲、モテトゥスオッフェルトリウム、イムヌス、マニフィカートなど、多種類のラテン語宗教作品を数多く残し、16世紀後半における最大の教会音楽家の1人とされているが、同時に、マドリガーレやカンツォーナなどのイタリア語による世俗作品も残した。その作風は、15世紀末以来のフランドル楽派の作曲家たちが用いてきた通模倣様式を基本とし、それに和声的な要素を巧みに組み込んだもので、順次進行の多い滑らかな旋律とも相まって、全体として、透明で清澄な美しさをたたえた性格をもっている。代表的な作品に、『ミサ・アスンプタ・エスト・マリア』、モテトゥス『谷川慕いて』、同『スターバト・マーテル』『インプロペリア』などがあり、それらは17世紀以後、教会音楽の手本とされるに至った。

[今谷和徳]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パレストリーナ」の意味・わかりやすい解説

パレストリーナ
Palestrina, Giovanni Pierluigi da

[生]1525頃.パレストリーナ
[没]1594.2.2. ローマ
イタリアの作曲家。 1537年にローマのサンタ・マリア・マジョーレ聖堂の少年聖歌隊に加わっていたといわれる。 44年生地の大聖堂のオルガン奏者兼聖歌隊員に任命され,51年ローマのサン・ピエトロ大聖堂のジュリア礼拝堂の楽長に就任。 55年教皇パウルス4世の即位とともに,既婚を理由に教皇庁の礼拝堂を追われてサン・ジョバンニ・ラテラノ聖堂に移り,61年サンタ・マリア・マジョーレ聖堂の楽長となった。 65年ピウス4世から教皇庁礼拝堂作曲家の称号を受け,71年ジュリア礼拝堂の楽長に返り咲いた。ルネサンスの声楽ポリフォニーにおける純粋対位法の技法を基礎に調和のとれた「パレストリーナ様式」を確立。作品は 12巻のミサ曲集など宗教曲 500曲以上,イタリア語によるマドリガーレなどの世俗音楽 180曲以上。

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世界大百科事典(旧版)内のパレストリーナの言及

【プラエネステ】より

…古代ローマのラテン人の都市。現在のパレストリーナPalestrina。ローマから東南東約30kmのアペニノ山中の高く涼しい場所にあった。…

※「パレストリーナ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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