広い意味では仏教とインドの外道(げどう),儒教,道教,キリスト教との論争も宗論であるが,普通には仏教において一宗と他宗との間でなされる宗義上の論争をいう。有名なのは,8世紀の末にチベットで行われたインド僧と中国僧とによる論争で,インド側代表のカマラシーラは漸門を説き,中国側代表の大乗和尚は頓門を説いた(漸悟,頓悟)とされ,この宗論後のチベットではインド仏教が採用された。
執筆者:礪波 護 日本では,宗論は古代・中世に盛行した。古くは最澄が法相宗の護命(ごみよう)・徳一(とくいつ)との間で大乗戒や法華の権実について文書を往復して論難した宗論をはじめ,963年(応和3)法相宗の仲算らが天台宗の良源(りようげん)らと定性(じようしよう)二乗不成仏の義について論争した〈応和宗論〉,1186年(文治2)法然の専修念仏の義について叡山の顕真(けんしん),高野山の明遍(みようへん),笠置山の貞慶(じようけい)らが問者となって大原勝林院で行われた〈大原談義(大原問答)〉などがよく知られる。
のちに日蓮宗(法華宗)が謗法折伏(ほうぼうしやくぶく)を標榜して台頭してくると,中世後期の宗論は,日蓮宗と他宗との宗論が中心となった。1338年(延元3・暦応1)備後の守護屋形で対決した本願寺存覚と日蓮宗の宗論,1501年(文亀1)管領細川政元の命で京都で行われた日蓮宗と浄土宗の宗論(文亀宗論),1536年(天文5)天文法華の乱の起因となる叡山の僧と1人の日蓮宗信者との間で争われた〈松本問答〉,75年(天正3)ごろ,阿波一国を皆法華に改宗させようとして三好長治の命で行われた日蓮宗と真言宗の宗論,79年(天正7)織田信長が安土城下の浄厳院(じようごんいん)で浄土宗の玉念らと日蓮宗の日珖(につこう)らを対決させた〈安土宗論〉,1608年(慶長13)江戸城中の家康の面前で行われた浄土宗源誉らと日蓮宗日経らによる〈慶長宗論(江戸宗論)〉などは,その社会的影響にはかりしれないものがあった。以上のうち,大原談義,文亀宗論,安土宗論,慶長宗論を,ときに〈日本四箇度宗論〉という。日蓮宗と浄土宗の大宗論は,両者が庶民仏教であっただけに,ともに信徒集団をまきこみ,勝てば宗勢が飛躍的にのび,敗北すれば政治的・社会的に大きな打撃をうけた。個人レベルの偶発的な松本問答が法華一揆と山門山徒の武力衝突に発展して京都を焼土と化した天文法華の乱となり,また安土宗論と慶長宗論で信長と家康が下した日蓮宗敗北の決定は,日蓮宗の支持基盤であった当時の町衆社会への覇者の鉄槌(てつつい)となった。宗論の社会的影響を警戒した戦国大名は分国法で宗論を禁止し,この方針を江戸幕府も踏襲し,寺院法度などで宗論の起因となる〈自讃毀他(じさんきた)〉を各宗ともに取り締まったので,近世以降宗論は衰えた。身延詣の法華僧と善光寺詣の浄土僧を登場させ,題目と念仏の宗旨争いの愚を風刺した狂言《宗論》は,中世に盛行した題目と念仏の宗論をほうふつさせるものがある。
執筆者:藤井 学
(1)平曲の曲名。大秘事物3曲の一つ。大秘事は最高の伝授物で,本曲のほかに《鏡の巻》《剣の巻(つるぎのまき)》の2曲があり,いずれにも一般の曲とは異なる曲節がある。本曲は,下記のようにきわめて長文の曲で,天竺(てんじく)への行程を旋律的な曲節で長々と語ったあとに,シラ(素)声とサシ(指)声を交互に配する叙唱的な宗論の部分を置くなど,独特の作曲法が見られるが,現在では伝承が絶えている。
高野山が荒廃して久しい堀河天皇のころ,天竺に釈迦如来が再生して説法をしているといううわさがあり,白河上皇が天竺に渡る気を起こしたので,その可否が議された。席上で大江匡房(おおえのまさふさ)ただひとりが反対論を述べたが,それは次の理由によるものだった。日本から唐土への渡海と違い,唐土と天竺の間には大難所が多く,葱嶺(そうれい),流沙(りゆうさ)などのさまざまな地理的難関があるうえ,妖鬼の危害もあるという(〈折リ声・中音(ちゆうおん)・初重,三重等〉)。有名な玄奘(げんじよう)三蔵さえ,6度も命を失い,7生目に初めて志を遂げたのである。そうした危険を冒さなくても,高野山には,弘法大師が今も生きたまま即身成仏の姿を示している。むかし嵯峨天皇のころ,宮中で大師と他宗の高僧たちとの宗論があったとき,各宗それぞれに自宗の優れた点を述べ,大師の説く即身成仏の義は根拠がないと難じた(〈シラ声,サシ声〉)。そのとき大師は,経論を引用して自説を主張しただけでなく,手に密印(みついん)を結び,口に真言を唱え,心に観念を行ったところ,頭上に宝冠を頂く如来の姿となったばかりか,宮中が浄土さながらに輝き渡ったので,帝も礼拝をなし,諸宗の僧も息を呑んだという(〈拾イ〉)。こうして大師は今も高野山におられるのだから,天竺よりも高野こそしかるべきだと匡房が奏上したので,30日の準備の末,盛大な列を整えて日本初めての高野御幸(こうやごこう)が行われたのだった(〈拾イ〉)。
執筆者:横道 万里雄(2)狂言の曲名。出家狂言。身延山から帰る法華僧と,善光寺から帰る浄土僧とが道づれになる。たがいに自分の宗旨に改宗せよと言い争い,宿屋に入ると宗論(教義問答)を始める。まず法華僧が〈五十展転随喜の功徳〉を芋のずいきの料理になぞらえた説経をすると,浄土僧も〈一念弥陀仏即滅無量罪〉を食事の菜に掛けた説法をするので,ともにあきれて寝てしまう。翌朝早く目ざめると読経争いから,踊念仏・踊題目の張り合いに発展する。拍子に乗って浮かれているうちにふと気がつくと,題目と名号とを取りちがえて法華僧が〈南無阿弥陀仏〉,浄土僧が〈南無妙法蓮華経〉と唱えてしまう。2人は翻然と悟り,釈迦の教えに法華も弥陀も隔てはないと,仲直りする。登場は浄土僧,法華僧,宿屋の3人で,浄土僧がシテ。軽妙洒脱で優位に立つ浄土僧と頑固で強情な法華僧を対比的に描き,排他的で無学な僧侶をユーモラスに扱っているが,より普遍的に人間のもつ我執と偏見を風刺した作とも考えられる。
執筆者:羽田 昶
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
仏教で、教義の異なる宗派の間で、その優劣、真偽などが論争されること。日本の仏教史上においては、平安時代に最澄(さいちょう)と徳一(とくいつ)との間になされた天台宗と法相(ほっそう)宗の論争をはじめ、1186年(文治2)に浄土宗の法然(ほうねん)(源空(げんくう))が天台宗の顕真(けんしん)の要請に応じて、真言宗の明遍(みょうへん)や法相宗の貞慶(じょうけい)らと論議をした大原問答などがあげられる。最澄と徳一の間では、すべての人が成仏(じょうぶつ)できるかどうかが論議された(三一権実(さんいつごんじつ)論争)。しかし、とりわけ多く宗論がなされたのは浄土宗と日蓮(にちれん)宗の間である。
室町時代以降、両宗の間の宗論は盛んになり、1579年(天正7)の安土(あづち)宗論や、1608年(慶長13)の浄土宗の廓山(かくざん)らと日蓮宗の日経(にっけい)らとの宗論はその極にあるものである。安土宗論とは、安土(滋賀県近江八幡(おうみはちまん)市)の浄厳院(じょうごんいん)で、浄土宗からは霊誉玉念(れいよぎょくねん)らが、日蓮宗からは日珖(にっこう)らが出て行われたもので、念仏信仰と法華経(ほけきょう)のかかわりが論議された。
[由木義文]
狂言の曲名。出家狂言。法華(ほっけ)僧と浄土僧(シテ)が出会い、出家どうし話を交わすうち、犬猿の宗派とわかり、宗論を展開。宿での徹夜覚悟の宗論は、法華僧の説く「五十展転随喜(ずいき)の功徳(くどく)」がずいき芋汁の話になり、浄土僧の「一念弥陀(みだ)仏即滅無量罪(ざい)」が献立の菜(さい)の話に変貌(へんぼう)する。互いの法話のあまりのあほらしさに、2人は寝入ってしまう。夜が明けると朝の勤めを始め、大声で向きになって経を読むうちに興にのり、浄土僧は踊り念仏、法華僧は踊り題目で浮きに浮く。そのうち2人は忘我の境地に至り、浄土僧が「蓮華経(れんげきょう)」、法華僧が「南無阿弥陀(なむあみだ)」と互いの宗派を取り違えてしまう。結局、仏の前では宗派争いなどはささいな問題と悟り、めでたく舞い納める。当時の新興宗教どうしが争う時代に、経文の解釈といってもしょせんは食べ物論議程度のことであり、法悦の境地に違いはないという、作者の醒(さ)めた眼(め)が光る。
[油谷光雄]
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…日蓮の折伏実践は,折伏がよびおこす迫害を甘受することにより自己の過去の重罪を消すことができるという懺悔滅罪(ざんげめつざい)の意識に支えられていたから,迫害受難はいっそう折伏実践を行わせることになった。この折伏の化導法は,中世日蓮宗において,宗論(しゆうろん)という形をとって発現された。しかし,戦国大名による宗論禁止やとりわけ織田信長による安土宗論で日蓮宗が敗退させられたことを契機として,しだいに摂受重視に転換していき,幕藩体制下では摂受中心にならざるをえなかった。…
※「宗論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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