日本歴史地名大系 「阿賀崎新田村」の解説 阿賀崎新田村あがさきしんでんむら 岡山県:倉敷市旧玉島市地区阿賀崎新田村[現在地名]倉敷市玉島阿賀崎(たましまあがさき)・玉島阿賀崎一―五丁目・玉島中央町(たましまちゆうおうちよう)二―三丁目玉島新田村の西、道口(みちくち)川と里見(さとみ)川の合流地域に位置し、近世初頭までは西高梁(にしたかはし)川河口の干潟であった。備中松山藩主水谷氏によって開発された新田の一つで約一二〇町歩、寛文一〇年(一六七〇)に汐留が完成し、延宝四年(一六七六)に高付された。赤崎とも記された。同年の検地帳(大田文書)によると、当初一町三反から一町五反の本百姓七七人を中心としたものが分化して八反から一町未満の者が増加するとともに、二町以上の者も増して徐々に地主化の傾向がみられる。元禄六年(一六九三)水谷氏断絶で幕府領となり、同八年の旧松山領新高帳(羽場文書)では赤崎村と記され古高一千六七二石余・新高二千一四石余とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by