日本歴史地名大系 「赤崎村」の解説
赤崎村
あかさきむら
- 岩手県:大船渡市
- 赤崎村
大船渡湾の東岸を占め、北は
元禄一二年の気仙郡古地図(大船渡市立博物館蔵)には製塩場として字
赤崎村
あかさきむら
現赤碕町域北東部に位置する。北は日本海に面し、南西は
藩政期の拝領高は五九三石余、本免は六ツ。藪役銀五匁・漁運上銀一五〇匁を課されていた(藩史)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高七〇〇石。幕末の六郡郷村生高竈付では生高七四一石余、竈数四六二。寛永九年(一六三二)制札所が設けられたのをはじめ(在方御定)、寛文四年(一六六四)には
赤崎村
あかさきむら
とあり、乱による農地の荒廃のほどがうかがえる。村の再建を図るために年貢免率を低減し、近隣諸藩から入百姓を招致した。「天草郡年表事録」によれば、正保四年(一六四七)天草に五〇〇人の入百姓があり、おいおい来住したという。万治二年(一六五九)石高半減により一八四石五斗余となった(天草風土考)。
赤崎村
あかさきむら
〔赤崎庄〕
元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実譲状案(九条家文書)に、家領のうちに「但馬国赤崎庄」とみえ、「本領也」と記される。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文の養父郡に「赤崎庄 十七町四反廿分」とみえ、「領家二条殿」「下司御家人跡」の注記があり、「於下司職者、筑後三郎兵衛入道女子与本司今井四郎入道道蓮相論云々」と記される。
赤崎村
あかさきむら
赤崎村
あかさきむら
赤崎村
あかさきむら
赤崎村
あかさきむら
赤崎村
あかさきむら
- 島根県:安来市
- 赤崎村
安来村南部の
赤崎村
あかさきむら
赤崎村
あかさきむら
赤崎村
あかさちむら
赤崎村
あかさきむら
赤崎村
あかさきむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報