朝日日本歴史人物事典 「阿部正次」の解説
阿部正次
生年:永禄12(1569)
江戸前期の大坂城代,上総大多喜,相模小田原,武蔵岩槻藩主。伊予守。徳川氏の部将阿部正勝の長男。母は江原定次の娘。三河生まれ。徳川家康から家光まで仕え,慶長5(1600)年書院番頭,武蔵鳩ケ谷1万石。15年には1万5000石。翌16年大番頭。大坂冬夏両陣に活躍。元和2(1616)年2万2000石,奏者番,翌年大多喜3万石,5年小田原5万石,寛永1(1624)年岩槻5万5000石,翌年5万6000石と転加封を重ねた。3年大坂城代となり8万6000石。14年島原の乱勃発を知ると,正次は江戸の指令を待たずに九州の諸大名に出兵を命じ,臨機応変の処置を将軍家光から称賛される。15年摂津3万石を残し,他の所領を子や孫に分知。正保4(1647)年大坂城中で死去。のち大坂城代の鑑といわれた。<参考文献>『岩槻市史』藩政史料上下,『大阪府史』3巻
(根岸茂夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報