霞ヶ浦・北浦(読み)かすみがうら・きたうら

日本歴史地名大系 「霞ヶ浦・北浦」の解説

霞ヶ浦・北浦
かすみがうら・きたうら

両浦とも県南東部に位置する海跡湖。霞ヶ浦は西にし浦ともいい、面積一六七・七平方キロの日本第二の湖で、周囲一三八キロ、最大深度七・三メートル。Y字形をなし、東の突出部の高浜入たかはまいりには北端に恋瀬こいせ川、その東に園部そのべ川が流入する。西の突出部の土浦入には桜川が流入し、南西部では小野おの川が流入、南東端では西から新利根川が入り、横利根川常陸利根川が利根川へ通じる。北浦は南北方向約二〇キロ・東西方向最大約四キロと細長く、面積三六・一平方キロ、周囲六八キロ、最大深度七メートル。北からともえ川が流入し、南端はわに川となって外浪逆そとなさか浦に入り、常陸利根川を経て利根川に通じる。両浦とも現利根川水系の堆積作用による閉塞や近代の干拓などで狭められたが、かつてははるかに広大で、古代にはえの浦・浪逆浦から印旛いんば沼・手賀てが沼までつながる巨大な入海であった。

両浦の全体の呼称は古代にはなく、「常陸国風土記」によると、信太しだ(現稲敷郡)の東は信太流海、南は榎浦流海、茨城郡(現新治郡・石岡市など)の南は佐我さが流海、信筑しづく(恋瀬川)の流れ込む所は高浜の海、行方なめがた郡の東西の流海などといわれた。吉田東伍は行方郡西を香澄かすみ流海、東を鹿島流海とよぶが、当時の史料にその呼称はない。ただ香澄里(霞郷)の海から霞ヶ浦の名が生れたことは確実であるが、北浦とともに、それが湖全体の名称となるのは江戸初期である。「常陸国風土記」は板来いたく(現行方郡潮来町)には海辺に臨んで駅家が置かれ、その海に「塩を焼く藻・海松みる・白貝・辛螺にしうむぎ、多に生へり」と記し、南方海中の洲には、春に鹿島・行方両郡の男女が多数集まってうむぎ・白貝などの貝を拾ったという。香澄里西方の海中にも洲があり、入海の東南部は浅瀬であったが、当時の霞ヶ浦・北浦は鹹水で塩焼も行われていたのである。

〔海夫〕

一一世紀前半、源頼信きぬ(鬼怒川。「常陸国風土記」では毛野河)の川尻の海の浅瀬を渡り、鹿島郡の対岸の内海の奥に本拠を置く平忠常を攻めており(「今昔物語集」巻二五)、康治二年(一一四三)八月一九日の太政官牒案(安楽寿院古文書)によって安楽寿院領として立券された南野みなみの牧の東が「海を限る」となっていることからも明らかなように、この水域は依然として広大な入海であり、そこには、漁猟や塩焼に携わりつつ舟運の担い手ともなった海民が、古くから活発に活動していたと思われる。おそくとも平安末期の応保年間(一一六一―六三)までに「海夫」とよばれたこれらの海民たちは、下総の香取社(香取神宮)に供祭料を貢献し、漁猟・交通上の特権を与えられるようになっていた(貞治五年四月日「大禰宜長房申状写」香取文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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