鹿島台地の南端近くに鎮座する。境内は椎・樅・杉などの樹木が鬱蒼と茂り、周辺は水郷筑波国定公園に含まれる。往古の神地の状況を「常陸国風土記」は、
と記す。現在の参道は北浦にかかる
「常陸国風土記」に大化五年(六四九)として
とあり、現在の摂社
大同二年(八〇七)成立の「古語拾遺」に「武甕槌神是甕速日神之子、今常陸国鹿島神是也」とあるように、祭神は武甕槌神で、「続日本後紀」承和三年(八三六)五月九日条に「奉授下総国香取郡従三位伊波比主命正二位、常陸国鹿島郡従二位勲一等建御賀豆智命正二位」、「延喜式」春日祭祝詞に「鹿島坐健御賀豆智命」などと記される。武甕槌神は「古事記」「日本書紀」によれば、伊弉諾尊が火神軻遇突智を切った十握剣に付着した血から生成し、「古事記」に「建御雷の男神、亦の名は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
茨城県鹿嶋市に鎮座。常陸国の一宮。旧官幣大社。祭神は武甕槌(たけみかづち)神(建御雷神)。《常陸国風土記》には649年(大化5)に神郡がおかれ,そこにあった天の大神の社,坂戸の社,沼尾の社をあわせて〈香島の天の大神〉といい,〈豊香島の宮〉と名づけられ,また崇神天皇のとき大刀,鉾,鉄弓,鞍などの武具が奉られたと記されている。《常陸国風土記》には武甕槌神の名はみえないが,武具の奉納からこの神が武神として信仰されていたことが知られる。866年(貞観8)に陸奥国内に38社の苗裔(びようえい)神が存在したこと,また社殿が北面していることなどは,大和朝廷の蝦夷平定に武神としてここの神が関与していたことを示している。また《常陸国風土記》にこの神が中臣鹿島連の祖に命じて舟を造らせたとあるのは,朝廷の東北進出と関係するものであった。中央の藤原氏は武神である鹿島と香取の神を信仰し,平城京遷都のおり,春日野にこの2神を勧請し,765年(天平神護1)には鹿島の封戸から20戸を割いて春日社にあてた。藤原氏の氏神とされたことから,777年(宝亀8)に正三位,836年(承和3)に正二位,839年には従一位,850年(嘉祥3)には正一位と神階がすすめられた。《延喜式》では〈鹿島神宮〉と呼ばれ名神大社とされ,祈年,月次,新嘗の祭りには案上の幣帛が奉られ,神官として,宮司,禰宜,祝部各1名,物忌1名がおかれた。神職は奈良時代に中臣鹿島連,平安初期に大中臣氏,そののちふたたび中臣氏がつくようになったようで,その任免権は摂関家がもっていた。天平勝宝年中(749-757)に祝の中臣大宗(おおむね)と鹿島郡大領中臣千徳(ちとこ)が僧満願とともに神宮寺を建立したと伝えられ,神宮寺は837年(承和4)に定額寺に列した。本地仏は不空羂索観音であった。中世に入り源頼朝の武神である鹿島社への信仰はあつく社領を寄進し,土着の鹿島氏を惣大行事に任じている。鎌倉時代になると1月7日の青馬(白馬)祭,7月10,11日の祭りは武士の巡役で行われる体制となった。1266年(文永3)の記録によると,当時の神職として大宮司,大禰宜,大祝部,物忌(女官),物忌父,宮介,権禰宜,和田権祝,益田権祝,物申権祝,田所権祝,惣大行事,検非違使,惣追補使,押領使等がみえる。幕府の関与により鎌倉後期以降は藤原氏の神宮への影響力は消えていった。一方,武士は一切経・法華経・大般若経等を寄進し,また忍性(にんしよう)も法華経を読誦している。武士の当社への信仰は室町・戦国時代にも変わらなかったし,要石(かなめいし),息栖(いきす)神社(摂社)の男瓶・女瓶などの伝承も生まれ霊験縁起の原型が形成された。武神であるので武道の場となり塚原土佐守は天真正伝神道流を学び,その孫養子(養子ともいわれる)の塚原卜伝(ぼくでん)は鹿島新当流の祖となった。1595年(文禄4)豊臣秀吉は常陸の検地を実施し,神官,供僧分として405石を認めた。1602年(慶長7)徳川家康は検地を実施し,新たに1500石を寄進したので,社領は2000石となり,1605年には造営遷宮も幕府の手でなされ,鹿島神宮は近世の支配体制のうちに位置づけられた。
→鹿島信仰
執筆者:西垣 晴次
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茨城県鹿嶋市宮中に鎮座。武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)を祀(まつ)る。武甕槌大神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命令を受けて、経津主神(ふつぬしのかみ)(香取(かとり)神宮の祭神)とともに、天孫降臨に先だち、高天原(たかまがはら)より出雲(いずも)国(島根県)に降(くだ)り、大国主神(おおくにぬしのかみ)と国譲りの交渉をしたと神話で語られる神で、神武(じんむ)天皇の大和(やまと)国(奈良県)入国にも天皇を守護したと伝えられるが、その神武天皇が即位ののち、神恩感謝のため当地に祀らせたのが本社の起源と伝承する。『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に、そのあと崇神(すじん)天皇の代になり、大坂山に大神が現れ、中臣神聞勝命(なかとみのかむききかつのみこと)に神託し、それにより天皇は大刀(たち)、鉾(ほこ)、鉄弓など多くの幣物を奉ったと記し、さらに日本武尊(やまとたけるのみこと)のとき、神示により舟3隻を奉納したと記している。大和朝廷の東方経営とともに、武神としての本社が創建されたのであろう。古くより、中臣氏が奉仕している。『風土記』に神戸65烟と記すが、『新抄格勅符抄』に、786年(延暦5)に神封105戸と記す。奈良時代、九州防備に赴く東国の防人(さきもり)が、まず本社に詣(もう)でて出発したことより「鹿島立(だ)ち」の語が生じ、それが広く旅立ちの意に用いられたのは、本社が古くより知られていたためとみられる。
812年(弘仁3)住吉(すみよし)・香取社とともに、20年に一度の式年遷宮の制度が定められ、866年(貞観8)ころには陸奥(むつ)国に苗裔(びょうえい)神38社があり、またそのころ神宮寺もあった。延喜(えんぎ)の制で名神(みょうじん)大社に列し、祈年(きねん)・月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)の奉幣を受けている。以後、平安時代にも皇室より一世一度の奉幣など、厚い崇敬を受けたが、その奉幣使を「鹿島使」とよび、駅路片道15日、乗馬で往復した。常陸国一宮(いちのみや)。鎌倉時代には源頼朝(よりとも)が崇敬し、あと武家も多く崇敬したが、室町中期以降、朝廷・武家の奉幣寄進がとだえ、ために社僧御手洗(みたらい)涼泉寺(りょうせんじ)別当良海上人(りょうかいしょうにん)が諸国を行脚(あんぎゃ)し、浄財を集め社殿造営にあたるようなこともあった。しかし、そのあと佐竹氏が神領を寄進、江戸時代に徳川家康がまた社領を寄せ、以後朱印領2000石となった。1605年(慶長10)家康造営の本殿は現在の奥宮であり、1619年(元和5)徳川秀忠(ひでただ)により、現本殿、拝殿、幣殿(いずれも国重要文化財)などが造営され、1634年(寛永11)水戸藩主徳川頼房(よりふさ)により楼門(国重要文化財)、忌垣(いみがき)などが構築された。明治の制で官幣大社となる。国宝の直刀・黒漆平文大刀拵(くろうるしひょうもんたちこしらえ)など宝物が多い。例祭は9月1日の神幸祭で、夜に提灯祭(ちょうちんまつり)が行われ、ほかに3月9日の祭頭祭(さいとうさい)、また午(うま)年9月2日の御船祭(おふなまつり)などがある。
[鎌田純一]
『東実著『鹿島神宮』(1968・学生社)』▽『鹿島神宮社務所編・刊『鹿島神宮』(1980)』
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茨城県鹿嶋市宮中に鎮座。式内社・常陸国一宮。旧官幣大社。祭神は武甕槌(たけみかづち)命を主神とし,経津主(ふつぬし)命・天児屋根(あめのこやね)命を合祀。武甕槌命は天孫降臨に先立ち葦原中国を平定した神。「常陸国風土記」には香島の天の大神とあり,孝徳朝に神郡がおかれたと伝える。当神社はもと当地方の航海神であったらしいが,香取神宮とともに大和朝廷の東国平定・支配に大きな役割をはたし,古くから軍神として大和朝廷に崇敬され,839年(承和6)従一位。また中臣氏の氏神ともなり,藤原氏は平城遷都にあたって鹿島・香取の神を春日神社に勧請。勅使鹿島使が派遣された。中世以降も源頼朝や徳川家康など武家から武神・軍神として信仰された。例祭は9月1日,7年ごとに勅使の下向がある。所蔵の直刀と黒漆平文大刀拵付刀唐櫃は国宝。本殿などは重文。
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