デジタル大辞泉
「平忠常」の意味・読み・例文・類語
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たいら‐の‐ただつね【平忠常】
- 平安中期の武将。高望王の曾孫。村岡忠頼の子。上総介、武蔵押領使を歴任。上総、下総に勢力をふるい、長元元年(一〇二八)に反乱を起こしたが同四年降伏。千葉氏、上総氏の祖。康保四~長元四年(九六七‐一〇三一)
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平忠常
たいらのただつね
(?―1031)
平安中期の武将。父は平良文(よしぶみ)の子忠頼(ただより)。上総介(かずさのすけ)、下総権介(しもうさのごんのすけ)、また武蔵国押領使(むさしのくにおうりょうし)と伝える。房総半島の各地に屋敷をもつ巨大な私営田領主で、1028年(長元1)に安房守惟忠(あわのかみこれただ)を焼き殺し、上総国府を占拠して反乱。朝廷は平直方(なおかた)を追討使に任じたが鎮圧できず、源頼信(よりのぶ)に交代させた。忠常は一戦も交えずに降伏、出家して昌安と称したが、京都への護送途中に美濃(みの)国(岐阜県)野上で死去、その首が京都に送られた。子孫は許され、上総氏、千葉氏などとして房総で栄える。『今昔(こんじゃく)物語』の忠常追討説話は、反乱以前の頼信の常陸(ひたち)国守時代の史実を反映するものと考えられ、頼信との間に早くから主従関係が存在した事実を示すものとみられる。
[福田豊彦]
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平忠常 (たいらのただつね)
生没年:967-1031(康保4-長元4)
平安時代中期の武将。忠恒,忠経とも書く。桓武平氏陸奥介平忠頼(経明)の子。祖父は鎮守府将軍平良文。父祖伝来の地下総国相馬郡を本拠とし,上総,下総,常陸に所領を拡大し,公事を勤めず国守の命令にも従わなかったという。1028年(長元1)安房守惟忠焼死事件が起き,朝廷は平直方を追討使として東国に派遣したが鎮圧は失敗におわった。この間ほぼ3年にわたって忠常は房総地方に権力をふるったが,領土の荒廃もはげしかった。31年朝廷はあらたに源頼信を追討使に任じ,頼信が甲斐に下向すると忠常は出家して常安と名のり,戦わずして降伏した。そして京都への護送の途中,美濃野上で病死した。千葉氏,上総氏の祖である。
執筆者:小田 雄三
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平忠常【たいらのただつね】
平安中期の武将。忠頼の子。鎮守府(ちんじゅふ)将軍平良文(よしぶみ)の孫。父祖代々東国に勢力を張ったため上総介(かずさのすけ)などとなった。1028年内乱を起こしたが,源頼信に降伏し,上洛(じょうらく)途中美濃で病死。千葉氏・上総氏はその子孫。
→関連項目上総国|下総国|平氏|源頼信
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平忠常
たいらのただつね
[生]康保4(967)
[没]長元4(1031).6.6. 美濃,野上
平安時代中期の武将。父は経明,また忠頼ともいう。上総介,武蔵押領使。父祖以来,下総,上総に大勢力を築き,長元1 (1028) 年安房に侵入して国守惟忠を殺し,以後3年の間その権力を維持した。これを平忠常の乱と呼ぶ。朝廷では平直方を,次いで源頼信を派遣して鎮圧にあたらせた。忠常は頼信の威名に恐れて戦わずして降伏し,京都へ護送される途中病死した。忠常の降伏により,以後東国では清和源氏が棟梁として威をふるい,源頼朝が東国で挙兵する基礎が築かれた。なお,忠常の子孫は千葉氏として栄えた。
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平忠常
没年:長元4.6.6(1031.6.28)
生年:生年不詳
平安中期の東国の武士。忠恒とも書く。陸奥介忠頼の子。父祖以来の東国に土着し,上総(千葉県),下総(千葉県,茨城県)の国司や武蔵国の押領使を経験しながら勢力を拡大した。万寿4(1027)年に下総の国衙を襲い,次いで安房(千葉県)の国守を焼き殺して房総半島を手中におさめ国家に反した。朝廷では平直方を追討使に任命して下向させたがこれには従わなかったものの,甲斐守源頼信に代えたところ即座に降伏し,京都へ護送される途中,病に罹り美濃国(岐阜県)において死んだ。『今昔物語集』には以前頼信と事を構えて敗れた忠常が名簿を差し出して家人になったという話がある。子らは処罰を免れ頼信の家人になったという。子孫は上総氏,千葉氏として発展した。
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平忠常 たいらの-ただつね
967-1031 平安時代中期の武人。
康保(こうほう)4年生まれ。平忠頼の子。房総半島の豪族。長元元年安房(あわ)(千葉県)の国守をほろぼして上総(かずさ)(千葉県)の国府を占領。追討使平直方に3年間抵抗をつづけたが,かわりの追討使源頼信とはたたかわず降伏。京都へ護送される途中の長元4年6月6日美濃(みの)(岐阜県)で病没した。65歳。法名は常安。名は忠恒ともかく。
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平忠常
たいらのただつね
967〜1031
平安中期の武将
忠頼の子。上総介となり,のち武蔵押領使などを歴任。1028年安房国司を殺害し,反乱(平忠常の乱)をおこし房総3国を支配したが,1031年追討使の源頼信に降伏し京都へ護送される途中,美濃国で病死した。
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