日本歴史地名大系 「面高村」の解説 面高村おもだかむら 長崎県:西彼杵郡西海町面高村[現在地名]西海町面高郷(おもだかごう)現西海町域の北部に位置し、北部の寄船(よりふね)鼻は俵(たわら)ヶ浦とつくる瀬戸(佐世保湾)に臨み、面高浦は湊津として重視された。曲(まが)り鼻・松山(まつやま)崎によって西に深く開く入江があり、面高川が注ぐ。海岸沿いの往還筋に一里山が置かれていた(慶安二年肥前国道法帳)。嘉暦四年(一三二九)七月三日の東福寺領肥前国彼杵庄文書目録(正慶乱離志裏文書)にみえる面高弥四郎入道・同九郎入道は当地を拠点とした勢力であろう。面高の唐人墓に五輪塔(花崗岩製)が一基分あり、南北朝期後半頃の造立と推定される。海岸部の台地上に岳(たけ)ノ城・梅崎(うめさき)城・西岳(にしたけ)城の跡地があり、面高氏との関連が指摘されている。城(じよう)ノ尾(お)・城山(しろやま)・城(しろ)ノ越(こし)・館(たち)などの地名が残る。江戸時代は大村領の外海(そとめ)に属する。慶長一〇年(一六〇五)の大村領内高目録に面高村とみえ、高六三石余で、田四町八反余・畠一町一反、物成三四石余。同一七年の総検地では高一〇〇石余と打出されるが(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高は四三石余とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。慶長高帳では小姓衆一人の知行地があった。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の大村ロザリオ組中キリシタン連判書付に「をもたか村」の「小兵衛じょあん」が署名している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by