日本歴史地名大系 「松山城跡」の解説
松山城跡
まつやまじようあと
高梁市街地の北方にそびえる
松山城は承久の乱後、新補地頭として
応仁の乱では、秋葉元明が細川勝元に属して京都洛東の
松山城跡
まつやまじようあと
松山町の中心部、通称
松山城跡
まつやまじようあと
大永四年(一五二四)一月、北条氏綱は江戸城を攻略、以後小田原北条氏の武蔵進出が始まる。この折、江戸城を奪われた扇谷上杉朝興は、河越城を経て当城に移ったという(「石川忠総留書」内閣文庫蔵)。
松山城跡
まつやまじようあと
松山城跡
まつやまじようあと
江川下流右岸、大きく北に曲流する江川に北東から
松山城跡
まつやまじようあと
周防灘に突き出た半島に所在した中世の城郭。半島の頂上部(城山、標高一二七・九メートル)を削平して本丸とし、南東に向けて郭を連ね、南麓に大手口を開く。海と急峻な斜面に囲まれた天然の要害である。「豊前古城記」や「豊前志」などには天平一二年(七四〇)に藤原広嗣を防ぐために築城されたとあり、その後の動向も詳しく記されているが口承の域を出ない。
弘治二年(一五五六)に比定される九月二〇日の大友義鎮書状写(横山文書/大分県史料一一)によれば、義鎮は同年八月一三日「松山城切岸」において戸次中務少輔に戦功があったと賞している。同三年大内義長が毛利元就に滅ぼされると、大友氏と毛利氏による豊前争奪戦が繰返される。永禄四年(一五六一)一一月
松山城跡
まつやまじようあと
松山城跡
まつやまじようあと
松山城跡
まつやまじようあと
松山城跡
まつやまじようあと
松山城跡
まつやまじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報