松山城跡(読み)まつやまじようあと

日本歴史地名大系 「松山城跡」の解説

松山城跡
まつやまじようあと

[現在地名]高梁市内山下

高梁市街地の北方にそびえる臥牛がぎゆう山頂の小松こまつ山にある山城跡。天守閣の現存する山城としては日本で最高所(標高四六〇メートル)にある城として知られる。

松山城は承久の乱後、新補地頭として有漢うかん(現上房郡有漢町)に来住した相模国三浦氏一族と伝える秋庭三郎重信が延応二年(一二四〇)臥牛山のうち大松おおまつ山に築城したのが創始と伝えられる(備中誌)。その後、小松山にも出城が築かれ、元弘年中(一三三一―三四)には大松山に高橋九郎左衛門宗康、小松山に弟大五郎が居城していたというが(備中府志)、元弘三年五月北条仲時に従って東上した宗康とその子又四郎範時は近江国で仲時に殉じて自害した(「太平記」巻九)。高橋氏はその後窪屋くぼや流山るざん(現倉敷市)に転じたと伝え、正平一〇年(一三五五)には備中守護高師秀が入城した。同一七年、南朝方の山名時氏が山陰から美作・備中に進出してくると、師秀は時氏麾下の多治目(多治部)・楢崎両氏と結んだ秋葉三郎信盛によって「松山ノ城」を追われ、備前徳倉とくら(現御津郡御津町)へ退き(「太平記」巻三八)、以後松山城には六代にわたって秋葉氏が在城し、守護代を勤めた。守護細川氏はおおむね在京していたために、当城が備中北部における守護所の機能を果していたと思われる。

応仁の乱では、秋葉元明が細川勝元に属して京都洛東の岩倉いわくら山に陣を構え、山名方の軍勢を打破っているが(応仁別記)、やがて秋葉氏の勢力は衰え、永正年中(一五〇四―二一)には下道郡下原しもばら(現総社市)鬼邑きむら(木村山)城を本拠としていた上野兵部少輔頼久が周防国山口の大内義興の支援を得て松山城主となった。上野氏は天文二年(一五三三)頼久の子伊豆守の時、猿掛さるかけ(現吉備郡真備町)城主庄為資に滅ぼされた(中国太平記)。庄氏は為資とその子高資の二代にわたって松山に在城した。この間備中に進出してきた山陰の尼子氏に攻められたが(「鹿苑日録」天文八年九月一二日条)、やがて尼子氏と手を結んで威を振るった。しかし永禄四年(一五六一)に高資が尼子氏の加番吉田左京亮と対立して城を出ると、安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首なりわかくしゆ(現川上郡成羽町)城主三村家親が松山城を攻めて左京亮を討ち(同年四月二〇日「小早川隆景感状」萩藩閥閲録など)、松山城主となった。

松山城跡
まつやまじようあと

[現在地名]松山町 内町

松山町の中心部、通称松嶺まつみね地区に築かれた近世の連郭式平城で、築城工事は天明元年(一七八一)から始められ、本丸・仮御殿・二の丸・三の丸・堀などが造成されたが、同七年未完に終わった。初代藩主酒井忠恒は、松山藩成立以来江戸浅草天王てんのう(現東京都台東区)に住んでいたが、分封後一五年目の寛文二年(一六六二)、ようやく領内中山なかやま村に邸宅を築き入部、同四年にはつるおかかめさき(現酒田市)に倣って中山村を松山に、隣村田尻たじり村を竹田たけだ村と改称した(大泉紀年)。忠恒以来、二代忠予・三代忠休・四代忠崇・五代忠礼・六代忠方・七代忠良・八代忠匡と歴代の藩主は当地を城池とした。忠恒居宅の地割は寛文元年惣奉行幾志与兵衛と土方嘉右衛門があたり、翌年中山村の農民を新城下のほん町に移し、田四四石余を埋立て永引高とし、土地区画を終了(「大泉紀年」など)、同年には郭内の工事が始められた。広さは東西二六〇間・南北四八〇間、藩主の屋敷は四千五六七坪で、四囲に土居・塀・堀がめぐらされ、西面する表門(大手門)と南面する裏門が設けられた。郭内にはほかに家臣の住居、二つの馬場や蔵を置き、道路は鉤形に交差させて軍事上の配慮をした。屋敷は大手門の東方にあり、大手門と屋敷門の門番は各々一二人で、出入りのときは拍子木をたたき、そのたたく数で人の格式を区別した。城下より郭内に入る通路は大手門のほかに北町きたまち口・石戸いしど口・蔵小路くらこうじ口・南町みなみまち口・愛宕あたご口の五木戸があり、安永七年(一七七八)に新設された修善寺しゆうぜんじ口・真学寺しんがくじ口とともに七木戸といわれた。木戸は貫を通した冠木門で、左右に柵があり片側に番屋を置いた。

松山城跡
まつやまじようあと

[現在地名]吉見町北吉見など

市野いちの川左岸、吉見丘陵の先端部に築かれた山城で、南側・東側には同川を挟んで沖積地が広がる。県指定史跡。「鎌倉大草紙」には、応永二三年(一四一六)一〇月に勃発した上杉禅秀の乱で、戦死した扇谷上杉氏定家臣上田上野介に「松山城主」との割注がある。応安元年(一三六八)の平一揆の乱後、扇谷上杉領となった当地が、上田氏に所領として宛行われ城を築いたものか。しかし当城の存在、あるいは城主上田氏について同時代の史料はなく、「鎌倉大草紙」の割注は後世に記された可能性がある。文明一〇年(一四七八)二月九日の足利成氏書状写(小山氏文書)によると、成氏は扇谷上杉定正が「吉見口」などで軍事行動を起こしていることを小山梅犬丸に伝えているが、この吉見口は当城にかかわるものかもしれない。「松陰私語」などによると長享年間(一四八七―八九)には「松山」で山内・扇谷両上杉氏の戦いが行われ、明応三年(一四九四)武蔵・上野・相模の一揆を率いて武蔵へ進発した山内上杉顕定と、伊豆の北条早雲に援軍を頼んだ扇谷上杉定正が対峙した折にも、顕定が松山に向かって布陣している。当城は長享の乱以降、山内上杉氏の拠点鉢形はちがた(現寄居町)の向城として機能していたといえよう。

大永四年(一五二四)一月、北条氏綱は江戸城を攻略、以後小田原北条氏の武蔵進出が始まる。この折、江戸城を奪われた扇谷上杉朝興は、河越城を経て当城に移ったという(「石川忠総留書」内閣文庫蔵)

松山城跡
まつやまじようあと

[現在地名]美山町大字三埜 岩江戸

岩江戸いわえど風呂ふろたににある中世の山城跡。寛永一一年(一六三四)一〇月になった道尾彦太夫編の「松山城由来書」によると、公家侍松平石見守兵部が応永三一年(一四二四)七月一八日法皇御所火災の時の功績により江州高島郡(現滋賀県)に五千石を加増され、のち岩江戸の西丘に松山城を築き住んだという。天正五年(一五七七)兵部の子土佐守の時、松山城は農民・地侍の攻撃を受け落城、留守居役浜源吾らは自殺した。

松山城跡
まつやまじようあと

[現在地名]江津市松川町市村

江川下流右岸、大きく北に曲流する江川に北東から都治つち川が合流する地点を見下ろす標高一四四メートルの山頂に設けられた山城。河上かわのぼり郷に属するこの地は江川水運の船着場で、また温泉津ゆのつ道と有福ありふく道との渡船場でもあり、地域内交通の要地である。河上城ともよばれた。城下のいち村には戦国期「石州中郡川上市」とよばれた市場も立てられていた(享保二年二月筆写「厳島神社廻廊棟札写」大願寺文書)。河上郷地頭の河上孫三郎は建武三年(一三三六)八月北朝方の攻撃を受ける。その折の攻防は「御敵河上孫三郎入道以下之城、去月廿五日押寄」とあるように(同年九月日「久利赤浪妙行代子息朝房軍忠状」久利文書)、城をめぐる戦いで、地勢的位置の重要性と山容の要害性からすでに南北朝期から防御施設が設けられていたとみられる。翌四年七月にも「河上孫三郎入道城郭」は再び北朝方の小笠原長氏らに攻められるが、同月二六日の小笠原貞宗代桑原家兼軍忠状(庵原文書)によれば、七月一二日には「浜手」において戦ったとあるから、松山城の麓の江川の河原で戦闘があったのであろう。

松山城跡
まつやまじようあと

[現在地名]苅田町松山

周防灘に突き出た半島に所在した中世の城郭。半島の頂上部(城山、標高一二七・九メートル)を削平して本丸とし、南東に向けて郭を連ね、南麓に大手口を開く。海と急峻な斜面に囲まれた天然の要害である。「豊前古城記」や「豊前志」などには天平一二年(七四〇)藤原広嗣を防ぐために築城されたとあり、その後の動向も詳しく記されているが口承の域を出ない。

弘治二年(一五五六)に比定される九月二〇日の大友義鎮書状写(横山文書/大分県史料一一)によれば、義鎮は同年八月一三日「松山城切岸」において戸次中務少輔に戦功があったと賞している。同三年大内義長が毛利元就に滅ぼされると、大友氏と毛利氏による豊前争奪戦が繰返される。永禄四年(一五六一)一一月門司もじ(現北九州市門司区)攻略戦で大友軍が総崩れとなり敗走すると、毛利軍は松山城を確保し(一二月八日「小早川隆景書状写」麻生文書/筑前麻生文書)、城番を置いた(一二月二三日「毛利元就感状」萩藩閥閲録三)

松山城跡
まつやまじようあと

[現在地名]松山町千石

千石せんごくの町並東南部の標高八二メートル余の丘陵末端に築かれた、中世から近世初期までの山城跡。千石村にあるため千石城ともよばれたが、中世後期から近世初期にかけての松山庄の中心的な城なので一般には松山城とよばれた。寛永一〇年(一六三三)頃と推定される松山城付近の絵図(仙台市博物館蔵)や「伊達治家記録」には松山城、延宝年間(一六七三―八一)の「仙台領古城書上」には千石城、「千石村安永風土記」には千石館とある。また茂庭家文書のうちには「土俗コレヲ文覚館ト云。

松山城跡
まつやまじようあと

[現在地名]青海町寺地

寺地てらじ集落の南方、まつ山の尾根上に南北五〇〇メートルにわたって城跡がある。標高約一七〇メートルの所に本丸跡があり、空堀で仕切られた帯郭・裾郭で幾重にもかためられている。特徴あるのは畝状の空堀で、長さ四〇メートル、深さ一・五メートルのものが七本残り、典型的な戦国時代の山城の形式を残す。城の麓は堂の入どうのいりで、その谷口に金剛寺があり、その寺門前てらもんぜんに寺地村があった。北陸道を足下に見下ろし、西方親不知おやしらずの険をひかえ、東方はひめ川を望み、信州口を押える要衝の地である。

松山城跡
まつやまじようあと

[現在地名]加賀市松山町

松山町の集落南東方の丘陵尾根上にある。「江沼志稿」によれば、松山には城山が二ヵ所あり、集落南方の山を御亭おちん(二六メートル)、その東奥がおお(五五メートル)で本城に相当するという。また同書に松山村の田地名として「矢倉の下」「からむて」など城関係の小字名がみえる。近年の調査で二ヵ所ともに遺構が確認されており、両山を合せて松山城とみることができる。

永禄一〇年(一五六七)越前本庄ほんじよう(現福井県芦原町)の堀江景忠が朝倉義景に背き加賀一向一揆がこれを支援した際、加越両国の和睦を調停した足利義昭は、同年一二月一五日、一揆方の松山・柏野かしわの両城を焼払わせた(朝倉始末記)

松山城跡
まつやまじようあと

[現在地名]鯖江市下新庄町

下新庄しもしんじようの東北、三里さんり山の西北部山頂(二九三メートル)にあり、尾根を六条の堀切でつなぎ、本丸と目される郭と隣接する他郭との間は土橋をもって連絡している。眺望優れた地である。「越前国城蹟考」は「松山城跡 樋口次郎 下新庄村ヨリ十五町計寅方山下ニ在」と記すが、この記述に該当する字本城ほんじろ一帯には遺構が認められない。

松山城跡
まつやまじようあと

[現在地名]波佐見町金屋郷

松山(一二〇メートル)にある中世の城跡。空堀を伴う平場や麓の水堀などを遺構とする。福田氏の用いた城で、のち大村氏の勢力下に置かれたという。肥前武雄の後藤貴明に対してよく防戦していたが、城主福田丹波の留守中に攻撃があり、これを才知をもって撃退したその娘は金屋かなやの石打御子と称されたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「松山城跡」の解説

松山城跡

(福岡県京都郡苅田町)
福岡県文化百選 歴史散歩編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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