日本歴史地名大系 「須富庄」の解説 須富庄すとみのしよう 兵庫県:加西市須富庄現加西市北西部に位置し、「播磨国風土記」の賀毛(かも)郡修布(すふ)里にあたる。「すふ」に須富の字をあてたため、のちに「すとみ」と読んだものであろう。現畑(はた)町・西谷(にしたに)町・窪田(くぼた)町・吸谷(すいだに)町・西上野(にしうえの)町が庄域で、本来畑町の高峯(たかみね)神社を惣社とした地域である。寛喜三年(一二三一)八月二一日の九条頼経袖判下文案(八坂神社文書、以下特記しない限り同文書)に須富庄とみえ、丹治(安保)信員が父実員の後を受けて当庄などの地頭職を安堵されている。乾元二年(一三〇三)閏四月一四日には安保道念が「すとみのしやうのきた(北)方はんふん(半分)」を子息次郎行念に譲与し(沙弥道念所領譲状案)、正中二年(一三二五)一二月六日には安保信阿が嫡子又次郎基員に当庄北方半分と「のりすゑ(則末)・ともやす(友安)」の二名を譲っており(安保信阿所領譲状并安堵外題案)、いずれも幕府の安堵を受けている。「のりすゑ」は現畑町の字乗末(のりすえ)が遺称地と考えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by