須川城跡
すがわじようあと
[現在地名]守門村須川
須川の集落の東方、下権現堂山(八九六・六メートル)と上権現堂山(九九七・九メートル)の北に張出した尾根の突端、標高約二八〇メートルの位置にある。桂ヶ瀬城ともいう(守門村史)。本丸跡・塁・空堀・乱穴・虎口・坂道・階段状の武者走り・犬走りの遺構がある。付近に的山・腰巻・殿様堀・中屋敷・右近・左近の地名が残る。
須川城跡
すがわじようあと
[現在地名]奈良市須川町下須川
標高三二三メートルの須川山上にある。方形の単郭で、周囲に土塁をめぐらす小城郭。簀川氏の居城であった。鷹塚城ともよぶ。「国民郷士記」に「須川山城須川辰巳之助」とある。「多聞院日記」天文一二年(一五四三)四月一六日条に「今暁従筒井簀川被取懸了、近般世上口遊ニハ万歳・片岡なとへかとのミ沙汰ニて、簀川へノ事一向無沙汰之処ニ、順昭自身被出張、彼在所三ツ城アリ、今日二ノ城落居了、簀川方究竟衆廿余人打死云々、簀川藤八親子四人、ワツカ北五郎ヲ始トシテ、究竟之衆打死云々、本城ハ未無退城」とあり、城中に残った五、六〇騎に対し、寄手は六千余騎で取囲んだとある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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