日本歴史地名大系 「風早郷・風早庄」の解説
風早郷・風早庄
かざはやごう・かざはやのしよう
風早郷は現在の松戸市北部から流山市南部、さらに埼玉県三郷市域にかけてを郷域とした中世の郷で、のちに庄園化したと考えられる。建久年間(一一九〇―九九)の香取社遷宮用途注進状(香取文書、以下断りのない限り同文書)に郷名がみえ、遷宮用途および覆勘禄料雑事のために籾一〇石・布五段・絹一疋四丈を負担している。また遷宮の社殿造営に際しては東廊一宇が所役となっていた(寛元元年一一月一一日造営所役注文写)。文永年間(一二六四―七五)の造営記録によれば、東廊一宇は当郷の本役で、作料官米七〇石、地頭左衛門尉康常が造進していた。康常は「吾妻鏡」弘長三年(一二六三)八月九日条で将軍上洛の供奉者中にみえる風早太郎左衛門尉康常と同一人物。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報