飫富庄
おふのしよう
小櫃川河口部北岸の現飯富を中心に展開していた庄園。飯富の西の神納も含まれるが、飯富の東の三ッ作は加津庄内なので、当庄の範囲は飯富・神納を中心とする小櫃川と海岸線に挟まれた比較的狭い地域と考えられる。古代の望陀郡飫富郷(和名抄)の郷名を継承し、「飯富」と記されることも多いが飫富が正しい。
「吾妻鏡」文治元年(一一八五)六月五日条に「上総国飫富庄」とみえる。平家の武将源季貞の子源太宗季が幕府に捕らわれていた父に会うため、当庄が外戚の所領であるという縁を頼って鎌倉に赴き、源頼朝の面前で矢を作って賞せられ御家人に列した。こののち宗季は当庄を拠点として飯富源太と称した(同書同年一〇月二四日条など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 