鹿津部真顔(読み)しかつべのまがお

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鹿津部真顔」の意味・わかりやすい解説

鹿津部真顔
しかつべのまがお
(1753―1829)

江戸後期の狂歌師。鹿部とも称した。本名北川嘉兵衛(かへえ)、江戸数寄屋河岸(すきやがし)の大屋。天明(てんめい)(1781~89)初め、元(もと)の木網(もくあみ)や四方赤良(よものあから)(蜀山人)に狂歌を学んで頭角を現し、恋川好町(すきまち)の名で黄表紙(きびょうし)もつくった。寛政(かんせい)の改革(1787~93)後は赤良の退隠、宿屋飯盛(やどやのめしもり)(石川雅望(まさもち))の江戸構(かまい)などのため、狂歌の中心の座を占め、四方歌垣と改号して和歌への接近を唱え、10首に銀1両をとる職業狂歌師となった。文化(ぶんか)(1804~18)中ごろからは狂歌の名を廃して俳諧(はいかい)歌と変え、高尚優美に詠めと勧めたが、機知も笑いも乏しいため不振の晩年であった。文政(ぶんせい)12年6月6日没。墓は東京都文京区小石川の光円寺に現存する。

 菓子壺(つぼ)に花も紅葉なかりけり口さびしさの秋の夕ぐれ
[浜田義一郎]

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